ショートショートその52『なかむら理容店』/大晦日。今年も無事に終わる。理容店のシャッターを閉めようとした瞬間、「散髪をお願いできないでしょうか?」と青年が飛び込んできた……
大晦日の午後六時。
早くも日が傾きはじめ、通りには青白い冬の光が落ちていた。
理容店「なかむら理容店」の店内に、天ぷらを揚げる音が漏れてきた。
二階の居住スペースから階段を伝って降りてくる油のはじける音は、今日という日を特別なものに彩っていた。
かすかに届く天つゆの甘い香りが、仕事場の無機質な空気をそっと包み込む。
「お父さーん、さくらがまたおれの野球グローブさわってるー!」
二階から響く健太の声に、中村浩一は思わず顔を上げた。
五十歳になった自分に、小学三年生の元気な男の子がいることが、時々まだ不思議に思える。
「さくら、お兄ちゃんの大切なグローブだから触っちゃダメよ」
妻の久美子が諭す声が聞こえ、すぐに四歳の長女が「えー、でも、かっこいいんだもん」と答える。
その声に、浩一思わず微笑んだ。
晩婚でなかなか子宝に恵まれなかった分だけ、子どもたちの何気ない声さえも愛おしく感じられた。
「もう、この子たち」
階段を下りてきた久美子は、エプロンの紐を結び直しながら、店内を見渡した。
四十五歳になった妻の横顔が、夕暮れの光の中で柔らかく輝いている。
「今年も色々あったわねえ」
その「色々」の中には、
健太が野球チームに入ったこと、
さくらが幼稚園の発表会で泣かずに最後まで歌えたこと、
そして浩一自身が町内会の副会長を引き受けたことも含まれている。
家族と共に刻まれていく時間の尊さを、中村は日々痛感していた。
シャンプー台を丁寧に洗い、消毒液の匂いが店内に漂う。
普段は気にならない香りだが、今日は何もかもが特別に思えた。
鏡を拭きながら、浩一は自分の姿を見つめる。
白髪は年々増えているが子どもたちの声を聞くたびに、心だけは若返っていくような気がしていた。
「お父さん、見てー!」
今度はさくらが小さな足音を響かせながら階段を下りてきた。
手には折り紙で作ったいびつな鶴の年賀状。
「先生に教えてもらったの。お兄ちゃんのより上手でしょ?」
得意げな表情を浮かべる娘に、浩一は「上手だね」と微笑みかけた。
カウンターの上に置かれた予約表を確認する。
来年最初の予約は一月四日、午前十時から。
常連の山田さんだ。
「今年もよろしく」という挨拶を、もう十五年以上も交わしている。
その頃には健太も三学期が始まり、さくらも幼稚園に戻っている。
平凡な日常が、また始まるのだ。
表の車の音が少なくなってきた。
近所の商店も、続々と店じまいを始めている。
向かいの八百屋では、主人が軒先の植木に水をやっていた。
年の瀬の冷たい空気に、水しぶきが白く光る。
浩一は、使い古された散髪はさみを手に取った。
刃を開閉させると、かすかな金属音が響く。
このはさみで、今年も数え切れないほどの髪を切ってきた。
長年の手の癖で、はさみは心地よい重みを持っていた。
「ねぇ、そろそろ上がってきたら?」
久美子が再び階段を下りてきた。
「健太がね、『おせちの栗きんとん、ちょっとだけ味見していい?』って言ってるのよ。早く上がってきて、止めてちょうだい」
その言葉に浩一は小さく笑った。
遅くに持った我が家の大晦日。
それは何物にも代えがたい幸せだった。
時計は午後六時半を指そうとしていた。
二階から漏れてくるテレビの音は、紅白歌合戦のオープニングだろう。
浩一は、シャッターを下ろすため入り口に向かった。
重たい金属音を響かせながら、シャッターが半分ほど降りた時だった。
「あの、すみません!」
慌ただしい声に振り返ると、二十代後半とおぼしき青年が小走りで店の前まで来ていた。
整った顔立ちながら、少し緊張した様子が窺える。
スーツの襟元から覗くワイシャツは、まだピシッとしていた。
「大変申し訳ないんですが、散髪をお願いできないでしょうか」
浩一は半分下ろしたシャッターを、ゆっくりと元に戻した。
「仕事でトラブルがあって、こんな時間になってしまって。これから彼女の実家で年を越すんです。こんな頭じゃ敷居を跨がせてくれない」
青年の髪の毛は確かに伸び放題だった。
「実家が旧家で、身だしなみには気を使いたくて」
「ああ、そうですか」
浩一は思わず柔らかな笑みを浮かべた。
「どうぞ、お上がりください」
青年を椅子に案内しながら、浩一は自分の十年前を思い出していた。
四十歳での結婚。
遅い春が訪れた時の、あの独特の高揚感と不安。
「なら、とびっきり男前にしないと」
クロスを巻きながら声をかけると、青年は
「はい、お願いします!」
と深く頷いた。
階上からは相変わらず、さくらの歌声が漏れてきている。
「一年生になったら」という歌が、不器用に、でも一生懸命に響いてくる。
「お子さんですか?」
青年が鏡越しに尋ねた。
「ええ。上が小学三年生の男の子で、歌っているのが四歳の女の子です」
「へえ、にぎやかでいいですね」
青年の声が和らぐ。
「僕らもいつか子どもが欲しいねって、彼女と話してるんです」
はさみを走らせながら、浩一は静かに頷いた。
子どもを授かることは、必ずしも思い通りにはいかない。
我が家もそうだった。
でも——
「お父さん!」
階段を駆け下りてくる足音とともに、さくらの声が響く。
「あ」
客に気づいて声を潜めた娘が小さく手を振って、また二階へと消えていった。
「可愛いお嬢さんですね」
青年が言う。
鏡に映った彼の表情が、柔らかく綻んでいる。
「ありがとうございます」
浩一は少し照れくさそうに答えた。
「子育ては大変ですけどね。でも、毎日が発見の連続です」
刈り上げに移る頃、二階からは天ぷらの匂いに混じって、健太の声が聞こえてきた。
「お母さん、おれも手伝うよ」
いつもはぶっきらぼうな息子が、今日は珍しく素直な声を出している。
「奥様の料理の匂いですか?」
青年が言った。
「僕も今日は彼女のお母さんの料理を楽しみにしてるんです」
浩一は、自分が結婚する前の晩のことを思い出していた。
当時よりも今の青年の方が、ずっと若い。
人生の門出に立つ彼の姿に、懐かしさと温かさを覚える。
「実は、来年の春、結婚式を挙げるんです」
「それはおめでとうございます」
「でもまだ彼女の実家は緊張してしまって」
「緊張なさるのは当たり前です」
浩一は櫛を取り替えながら言った。
青年の頭を傾けながら、浩一は耳周りの輪郭を整えていく。
長年の手慣れた動作の中で、思考が自然と過去へと遡っていった。
四十歳。
標準的な人生からすれば、随分と遅い結婚だった。
それでも久美子は照れくさそうに「いいんです、私」と言ってくれた。
彼女もまた、その時三十五歳。
古い考えの者からは「もう子どもは難しいかもね」と言われることもあった。
「お子さんたち、とても仲が良さそうですね」
青年が静かな声で言う。
その言葉に、浩一は思わず手を止めた。
確かに、さっきから二階では健太とさくらの楽しげな話し声が響いている。
「お兄ちゃん、これ持ってて」
「よいしょ、重いなあ」
おせちの準備を手伝っているのだろう。
「ありがとうございます」
浩一は再びはさみを走らせ始めた。
「上の子が生まれた時は、もう諦めかけていたんです。その分、下の子が授かった時は、奇跡のような気がしました」
「奇跡、ですか」。
青年の声が柔らかくなる。
「ええ」
浩一は仕上げのすき毛に移りながら、あの日のことを思い出していた。
妻の妊娠が分かった時。健太が生まれて来た時。
そして五年後、予期せずさくらを授かった時。
五十歳になった今でも、その時の喜びは色褪せていない。
「お父さん、もうすぐ終わる?」
いつの間にかさくらが階段の途中で首を傾げている。
手には折り紙の鶴が数羽。
「お母さんが、もうすぐおせちの飾り付けするって」
「もう少しだけ待っててね」
浩一が答えると、さくらは
「うん!」
と元気よく返事をして、再び二階へと消えていった。
その後ろ姿に、浩一は今でも「パパ、抱っこ」とせがむ赤ちゃんの面影を見る。
「可愛い盛りですね」
青年が言った。
「実は、僕も子どもの頃、父に連れられてよく床屋に来てたんです。今でも覚えてます。散髪が終わった後、必ずアイスクリームを買ってくれて」
浩一は微笑んだ。健太もまた、散髪の後はいつもアイスクリームをねだる。
「僕も大きくなったらお父さんみたいに散髪するの上手くなりたい」と言ったことも。
その言葉を聞いた時、妙に胸が熱くなったものだ。
二階からは久美子の「健太、それはもう少し右かな」という声が漏れてくる。
息子の「こう?」という返事。
その何気ない会話が、店内にぽっかりと温かな空気を作り出していた。
「結婚生活って」
浩一は仕上げに移りながら、静かに言葉を紡いだ。
「始まりは誰でも不安だと思います。でも、日々の小さな発見があって。家族って、そういう一つ一つの積み重ねなんですよ」
鏡に映る青年の表情が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
「はい、これで終わりです」。
浩一は最後の仕上げブラシをかけながら言った。
鏡に映る青年の表情が、来店時よりもずっと晴れやかになっている。
「ありがとうございました」
青年は丁寧にお辞儀をした。
「彼女の父が『身だしなみは人となりを表す』とよく言うんです。こうしてきちんとした状態で年越しを迎えられて、安心しました」
「そうですか」
浩一は微笑んで応えた。
「では、どうぞ良いお年を。そして、春の結婚式。末永くお幸せに」
青年を見送る時、浩一は思い切り身震いした。
通りには年の瀬の寒気が立ち込める。
シャッターを下ろす音が、「なかむら理容店」今年の仕事の終わりを告げた。
「お父さん、早く上がっておいで」。
二階から久美子の声。
「お風呂、沸いてるわよ」
階段を上がると、そこには見慣れた我が家の年末の風景が広がっていた。
テレビの中の紅白歌合戦では、名前を知らないアイドルが歌っている。
ストーブに置いたやかんからもくもくと湯気が立っている。
ちゃぶ台の上には半分出来上がったおせちが並び、健太が箸で器用に飾り付けを手伝っている。
さくらは折り紙の鶴を並べながら、時々「ここでいい?」と母に確認していた。
「あら」
久美子が浩一の顔を見て言った。
「今日の最後のお客さん、若い人だったの?」
「ああ。来年、結婚するそうだ」
「へえ」。
久美子は夫の横顔を見つめた。
「私たちも、そんな時期があったわねえ」
「お父さん、見て見て!」。
さくらが駆け寄ってきた。
折り紙の鶴を高々と掲げる。
「おせちのお供えにするの。先生が、お正月は縁起物がいいって」
「そうか、上手だね」。
浩一は娘の頭を撫でた。
小さな頭の感触に、今年も大きくなったなと感じる。
「お父さん」
今度は健太が声をかけてきた。
「明日から新しい年だね。野球、もっと頑張るよ」
「ああ」
中村は頷いた。
湯船に浸かりながら、中村は今日一日を振り返っていた。
窓の外では、誰かの家で大掃除の音が聞こえる。
湯気の向こうで、自分の指先が少ししわがれて見えた。
五十歳。
決して若くはない父親だ。
これから先のことを考えると、不安がないわけではない。
でも——。
「お父さん、お腹すいた!」
さくらの声が浴室の戸越しに響く。
「お母さんが、もうすぐ年越しそばだって!」
「はーい」
浩一ら思わず声が弾んだ。
風呂から上がると、茶の間からは天ぷらの香ばしい匂いと、家族の話し声が漏れていた。
健太の「今年は何個食べていい?」という声。
さくらの「私も、私も!」という声。
久美子の「はいはい、でも天かすは程々にね」という優しい声。
タオルで髪を拭きながら、浩一は考えた。
人生の幸せは、案外こんな風に訪れるものなのかもしれない。
遅くても、小さくても、かけがえのない宝物として。
「さあ、お父さん」
久美子が浩一を見上げた。
「我が家の年越し、始めましょうか」
通りはさらに人が少なくなってきている。
みんな、それぞれの年越しを始めている。
【糸冬】