追悼・大山のぶ代さん
人間、生まれてきたからには何かしら、自分の持っている能力や才能を信じて、何とかそれを仕事に変えて世の中に貢献したい、そんな夢を見るものである。
志だけは大きく持ちながら、どうもそちらの方面には自分はお呼びでないと気がつき、地道にコツコツと人生を生きていく人がほとんどの中、人に、とりわけ子供たちに夢を与える、そんな仕事に就いて人々の記憶の中に残る、幸運な人も世の中には存在する。
その一人が九月二十九日に死去したと十月十一日に大々的に報道された、俳優の大山のぶ代その人である。
私がテレビを通して知っている大山さんといえば、古いところでいえば「ブーフーウー」である。
これは、私の好きな黒柳徹子さんの若き日の出演作品の一つで、二人の共演作であるから、そのつながりで大山さんが出演していたことを知った。無論、私はその当時、まだ生まれていなかったから、リアルタイムでは知らないが、その頃の古い映像を一部だがテレビで観たことがある。大山さんの声は若いというだけで、私が聴き慣れ親しんだそのままの声だった。「サザエさん」のカツオ役をやっていたことは不覚にも存じ上げていなかったが、やはり、大山さんといえば何と言っても二十六年間、声優として演じ続けた「ドラえもん」であろう。
何か突出して人と違うものを持っているということは、幸にもなるし不幸にもなる。不幸になるのは、その「人と違うもの」を受け入れて、人生に活かせなかった人であろう。大概の人は、その「人と違うもの」に自分の価値を見出せず、コンプレックスになり内に引っ込めて人目につかないよう、隠そうとするものである。しかし、大山さんはそのコンプレックスにもなり得る声を、あえて自分の最大の身過ぎ世過ぎの道具にし(普段なら武器と言いたいところだが、多分、大山さんは武器とは言わないだろうと思う)幸に変えた人である。
夜のニュースで大山さんが演じた初期の「ドラえもん」の映像が一部放映された。その声は、後年耳にした声とは違い、少々荒削りで勢いがあった。
どことなくダメダメなのび太を包み込むというよりは、少々手厳しく突っぱねて扱っているようなところがほんの少しだけ、私には感じられる部分があった。それは、きっと大山さんの若さゆえだろう。そんな若いドラえもんも、月日を重ねて演じていくうちに、大山さんの人柄がその声に滲み出るようになって来たのはいつの頃からだったのか。
当初から変わらなかったのは、言葉に対する大山さんの思いである。何より、「ドラえもん」は子供が見る番組だから、子供に汚ない日本語ではなくきれいな日本語、礼儀正しい言葉遣いを教えなければという思いがあった。お馴染みの「僕、ドラえもんです」の僕は、当初、「俺」だった。君とは言わず、「お前」だったという。
実生活では母親になることは叶わなかった大山さんだったが、大山さんがもし子供を持つことが叶っていたら、きっと我が子にそんな「俺」だの「お前」なんて言葉遣いはさせなかっただろうと思う。テレビの向こうにいる子供たちを自分の子供たちだと思う、そんな母親的感覚も大山さんの中にはあったのだろう。そんな思いがドラえもんを通して子供たちに伝わっていたから、日本中、いや、世界中に大山さんの「子供たち」は大勢いるのである。
終盤に差し掛かったドラえもんを演じていた大山さんの声は、慈愛に満ち、優しさに溢れ、何か人々を包み込むような、そんな暖かさに溢れた声に変わっていた。そしてその反面、あの嗄れたユニークな声の中にどこか悲しみを湛えた、孤独な一面を覗かせる瞬間がそこここにあったのは、大山さんの人生の悲哀そのものだったのだろう。殊に、のび太との別れのシーンは、思い出すだけでも目頭が熱くなる程、ファンの胸に焼きついて離れない、秀逸な名場面の一つであった。
大山さんの人生がドラえもんを成長させ、ドラえもんが大山さんを成長させた。役者とキャラクターという枠を超えた、そんな持ちつ持たれつの関係だったのだろう。そして、テレビの向こうには、二人を愛してやまない純な瞳を持った子供たちの、熱い眼差しが絶えずあったことも、大山さんの生きる力になっていたことだろう。
役者として「当たり役」というものを持てる役者はそうはいない。そんな世界で、大山さんは半永久的に人々から忘れられることのない、素晴らしいドラえもんというキャラクターに命を吹き込み、そしてそれを自他共に認める当たり役に出来たことは、大山さんの役者人生最大の幸福であったと言える。
今年は大山さんと夫の故・砂川啓介さんが結婚して六十周年を迎える年であった。そんな年に大山さんが天へと召されたことを思うと、砂川さんが大山さんを迎えに来たのかもしれない。信心深くない私だが、そんな風に思えてしまうのである。
「徹子の部屋」でご夫婦揃って出演した時、結婚式の時の写真が紹介された。ちょっと照れた、うつむきかげんの新妻だった大山さんがとても初々しくて可愛らしかったが、時に人生は素晴らしく、そして過酷である。しかしまた、そんな人生から私たちは多くのことを学ぶのである。
晩年は認知症を患い、自分がドラえもんを演じていたことも忘れてしまっていたような話も伝え聞く。それを人は哀しいと憐れむが、私にとってはそんなことはどうでもいいことである。だって、大山さんが忘れても私が、いや、世界中の人たちが忘れることは決してないのだから。
「全て、何も心配せずに忘れて大丈夫ですよ」
もし、生前の大山さんに会うことがあったら、私はそんな風に言葉をかけていたかもしれない。
「世界中のみんながずっと覚えているから、安心して忘れて下さいね」と。
幸いにも、大山さんはここ何年も公の場に姿を見せていなかった。そのせいもあり、私は大山さんの死の報せを耳にしても、何だか今もどこかでのんびりと楽しく心穏やかに余生を過ごしている、大山さんとドラえもんが何やら楽しそうに語らっている姿が、目に浮かぶだけだったが、大山さんに育てられた、子守りをしていただいた世界中の子供たちの中の一人である私は、大切な幼馴染みと育ての母を失くしたことに気づいて、もう二度と子供の頃には戻れないことを改めて痛感したのだった。
2024年10月11日 書き下ろし