追悼・森英恵さん
日本を代表する世界的ファッションデザイナーの森英恵さんが、11日に死去したことが発表された。96歳だったという。
私は、特別彼女と何か縁があった訳でも何でもないのだが、私の祖母が存命だったならば、森英恵さんと同い年だったということもあり、そしてまた、私の母も森英恵さんのモチーフである蝶々が大好きだったし、私もそんな母からハンカチーフ等を一枚、貰ったりしていたので親しみは非常に強かった。
つい先日、親子3代で『徹子の部屋』に出演した際には、森英恵さん独特の表現の仕方で
「私は、この家のゴミ箱だから、みんなが愚痴を私の部屋に来て話して、それでスッキリして、それぞれの部屋に帰って行くのよ」
なんて話を、ユーモアたっぷりに話されていたのが印象的だった。 こんなところも、亡くなった私の祖母と似ていた。
そんな、森英恵さんの若い頃は、自分で店を開き日活の黄金時代には、衣装を担当した。
あの当時、映画の衣装デザイナーとなると、私は外に誰も知らないのだが、その頃のデザイナーと言えば、森英恵さんしかいなかったように思う。
オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』の衣装デザインを担当した、イーデス・ヘッドと同じような感覚で、私は森英恵さんを日本映画界の衣装デザイナーという認識を持っていた時期もあった。
彼女が、パリコレで大成功を収めたことは、余りに有名な話なので、あえてここに書く必要もあるまい。
彼女の、もうひとつの大きな仕事となったのは、歌手・美空ひばりさんの『不死鳥コンサート』の衣装を担当したことだ。
ひばりさんの体調が、余りにも悪く、身につける衣装自体がひばりさんの体に、非常に負担がかかることを知ると、彼女の体のことを考えて、何の躊躇もなく衣装の軽量化を試みた。
森英恵さんはそうやって、着る側の人間に寄り添える、思いやりのあるデザイナーだったと私は思う。
何年か前に、美空ひばりAIによる新曲が発表された時も、彼女はそのプロジェクトに関わったが、完成したそれを見て、 決して悪口などではなかったが懐疑的とも取れる意見を唯一人、述べたのが印象的だった。
美空ひばりという人と、実際に会って仕事をしたことのある人間として、彼女は自分の思ったことをそのまま言ったのである。
その時、私は、
「あぁ、良かった。こういう人もいて。みんながみんな良かったっていうのは何か違う」
そう思ったのだった 。
森英恵さんは大正15年生まれと聞いている。
大正、昭和、平成、令和とそれはそれは長い長い、そして最晩年まで充実した女の一生だったと思う。
簡単ではあるが、どうしても彼女の突然の訃報を知り、書き留めて置かずにはいられなかった。
走り書きのようで些か、森英恵さんには失礼かもしれないが、あえてこのまま、彼女に追悼の意を込めて掲載しようと思う。
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