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『第77回 全日本体操種目別選手権』

 梅雨入りから間もない六月十一日、私は代々木第一体育館で開催された『第77回 全日本体操種目別選手権』を観戦して来た。

 毎年『全日本体操選手権』『NHK杯体操』そして『全日本体操種目別選手権』はテレビやネット中継で欠かさず観て来たが、今年は全試合を会場で観ることが出来た。出不精な私にとっては、この三大会連続観戦は奇跡のようである。

 会場となった代々木第一体育館を訪れたのは、今回が初めてである。駅からとても近かったので、今日のような天候不良の日や、到着時間がギリギリの時には非常に助かる会場である。

 今回も初めて尽くしだったので、書きたいことはたくさんあるのだが、最も印象深かったことのみに絞って書き綴りたいと思う。

 まず、試合会場となった代々木第一体育館の会場を観て、私は驚いた。それは、試合会場とウォーミングアップエリアが壁一枚で隔てられているだけで、試合を観ながらご贔屓の選手の練習風景やルーティーン等を観られる、贅沢な作りとなっていたからである。

 種目別の試合が行われている隣で、選手たちは試合の進行状況や演技を終えた選手の順位やスコアを見ながら、自分の出場種目の練習やウォーミングアップを行うことが出来るのである。

 私は試合を観ながら、時折、双眼鏡でこれから出番の選手たちのウォーミングアップの様子を、競技の合間に何度もチェックしていた。

 橋本大輝選手(順天堂大学)は、軽く床の上を走ったり鉄棒にぶら下がり、その感覚をチェックしたり、実際に技の確認をしたりしていたが、本番では大技リューキンの際、バーを掴めず落下し、着地も大きく乱れて橋本選手らしくない、精彩を欠く演技となった。
 橋本選手自身も演技終了後、今まで見たこともないくらいにうなだれていて、私は橋本選手を見ていて二〇一九年の世界体操以来、初めて辛い気持ちになった。
 やはり、コンディションが良くなかったのだろうか。前日の予選は鉄棒には出ず、あん馬のみとなったか十一位に終わり、予選敗退となったとニュースで知った。
 この時、試合では成功させることが出来なかった大技・リューキンを練習の時には確かに成功させていたのを私は観ていたので、今度こそ『世界体操』では再び成功させることが出来るよう、祈る気持ちでいっぱいになった。
 世界体操代表メンバーが勢揃いした時には、いつもの笑顔の橋本選手に戻っていたのでホッとした。もう、橋本選手の気持ちは世界体操へと向いている。

 その長いキャリアの中で怪我を克服し、独自の体操を追及し続けているのがベテラン、田中佑典選手(田中体操クラブ)である。

 私は試合中も、この日最後の種目になる鉄棒に向けて、それはそれは入念にウォーミングアップをしている田中選手を、何度となく見ていた。

 念入りに時間をかけてストレッチをしている姿を見て、やはり体操選手は体が柔らかいのだなぁと、当たり前のことだが感心してしまったが、演技に向けて体を目覚めさせているような印象を受けた。
 それから鉄棒にぶら下がり、肩や腰を左右に捻ったりして、それはまるで体や負荷の掛かるパーツと対話しているかのようであった。

 懸垂を素手で軽々と五、六回した時には私は驚きを隠せなかった。当たり前だかやはり、体操選手の腕力というのか、体の持つ力の凄さを感じたのである。

 田中選手は、しばしばどの方面の方からも語られるが、実に美しい体操をする選手である。その練習中の姿も、田中選手独特の試合というより演技に向かう一つの『過程』をじっくり見ているようで、何と言ったらいいか、体操選手・田中佑典の哲学のようなものを垣間見たような気がしたのである。このバックステージを観ることが出来たのは、非常に意義のある貴重な時間となった。

 迎えた演技の時、田中選手は何も変わらなかった。順番が来ると鉄棒に向かい、名前を呼ばれると右手を挙げ挨拶をし、静かに演技を始めた。

 それは全く乱れのない、無駄という無駄を徹底的に削ぎ落としたスマートな演技で観客の目を奪い、最後の着地はまるで床に吸い着くような、完璧な着地で演技を終え、会場が拍手喝采となった。
 私は田中選手に感心してお話した足先を、じっと見つめていた。その足先はやはりここでも開くことは一度もなかった。

 田中選手はこの演技で、九年振りに種目別鉄棒で金メダルを獲得した。誰もが文句なしの圧巻の美しさと完璧さであった。

 千葉健太選手(セントラルスポーツ)は、緊張していたのかどうか私には計り知れないが、どの種目も部分的に本当にわずかだったが乱れがあり、トップ三に入れず四位止まりで種目別でのメダル獲得にはならなかったが、無事に初の世界体操代表入りを決めた。

 世界体操代表メンバーとしてのインタビューでは、「お待たせしました」と語り、インタビュー慣れしていないせいか、率直な発言が観客の笑いを誘い、そんな千葉選手の人柄に会場からは温かい祝福の拍手が贈られた。

 試合の前半と後半の間に、今月一日、現役引退を発表した山室光史選手の引退セレモニーが行われた。スーツを着た山室選手が赤い絨毯の上を歩いて登場した。山室選手も見つめる視線の先にある大型スクリーンには、ユニフォームを着た力漲る山室選手の姿が映し出された。

 そして、同時代を共に生き、永きに渡り体操界を牽引した内村航平さんからのビデオメッセージが流れた時には、会場内がどよめいた。

 山室選手は涙こそ見せはしなかったが、航平さんのメッセージに感慨を覚え、何か込み上げて来るものがあったように私には見えた。

 私は引退する数日前の、選手としての山室選手にお会いすることが出来た。そして、引退して間もない山室選手にもお会いすることが出来た。
 やはり、どうしても「山室選手」と声を掛けてしまわずにはいられず、これが最後と思ってそう声を掛けたら「体操選手してました」と笑っておっしゃって下さったが、わずかな時間の中で交わした言葉の端々に、謙虚で誠実な人柄が見え隠れしていたように思う。本当に長い競技生活お疲れ様でしたと、直接お伝えすることが出来たのは幸いだった。

 そして偶然なのだが、世界体操代表入りを果たした南一輝選手のお母様ともお話することが出来た。  
 たまたま話し掛けた女性が南選手のお母様だったという、中々ない偶然に私はびっくりして言葉を失いかけたが、とにかく、こんなおめでたい日はないので、ご令息の代表入りをひたすら祝福した。私も『世界体操』での南選手の活躍が楽しみである。

 ここに名前は挙がっていないが、素晴らしい演技を披露してくれたたくさんの選手たちに、ありがとうを伝えたい。

 『全日本体操』から始まった私の体操観戦も、過ぎてみればあっという間の三ヶ月であった。こんなに毎月出掛けたのも、ワクワクしたのも随分前のことのように思う。もっとコアな体操ファンの方からしたら、まだまだと言われてしまいそうだが、これからも体操観戦を、選手の演技をマイペースに楽しんで行きたいと思う。

            (二〇二三年六月十三日)

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