手放す時
私は、断捨離というのが好きではない。
その行為自体がどうということではなく、その言葉の響きがどうしても好きになれない。
これを書くにあたり断捨離とは何ぞや、という記事を初めて読んだが、とても理にかなっていた。
しかしそれは、断捨離という本当の言葉の意味を理解している者に限って言えることで、まだまだどこか、誤解されているようなイメージが私にはある。
紛れもなく私自身がその一人であるからだ。
何と言えばいいのか、その時々でするべき時があると思うのだが、断捨離というのは何となく強引さがあり、納得していないところもあり、無理矢理感が私には否めなく、そして何よりその言葉には情け容赦がないような、そんな気がするのである。これは、テレビでの取り扱い方のせいかもしれない。きちんと言葉の意味を説明せず、イメージが独り歩きしてしまった結果かもしれない。
ここ十数年の間に、事あるごとに耳にする言葉になったこの断捨離は、それに抵抗のある、納得していない者を説き伏せるために使われる常套句のようで、人によってはまるで脅迫のようにも受け取れる、そんな言葉になってしまっている気がする。
何でもかんでも、部屋に溜め込めばいいというものでもないことは理解している。しかし、人生というものはとかく生きていれば生きて来た分だけ、背負うものも多くなり、今は使わないと思って仕舞い込む物も多くなるものである。
それは避けては通れないことである。
しかし、逆を返せばそのどれもが素晴らしいとは言えなくとも、実り多い人生であったことの証でもあると思うのである。
それをよく吟味せず、使わないからと言う理由だけでよく考えもせず勢い良く捨ててしまうのは、私はどうしても冥利が悪い気がして出来ないのである。
身の回りの整理は、定期的に行うことがやはりいちばんなのだが、人間、目先のやらなければならないことに追いかけられ、気がつけば平気で五年十年が経ってしまうというのが世の常である。その間に、どんどん溜まってしまった物を、何も考えずに一気に処分することは、思い切りの良いことだとは思う。しかし、いちばんの解決策は物を手にする時、考えに考え抜いて購入する術を身につける方が先決ではないかと、私は思うのである。
たった一枚のTシャツでさえ、安いからと気軽に買わず、貧乏ったらしいことと思われるかもしれないが、本当に必要かどうかそこで考え抜くことは、これだけ物で溢れ返っている現代において、断捨離以上に大事なことのような気がするのである。
あらゆる物事を判断する時の力になるような、そんな気がするのである。
私も、この一年で様々な物を手放した。
それは決して断捨離ではない。
もう私の人生を十分に楽しませてくれて、そして、ずっと寄り添い続けてくれた。もう十分だと心から思えたものだけを、私は手放している。私から言わせたら、これは断捨離ではない。
感謝の気持ちを持って、それだけで何も思い残すことなく手放せる 「時」 が来た。 断捨離とは、私にはただ、その時か来ただけのことなのである。
これを書いてから二年が経ったが、今も私は物に礼を言って手放し続けている。死んだ時、残された荷物が段ボール一箱分だったら天晴れなのだが、そうはいかないだろう。
まだまだ、物に振り回されそうである。
2022年9月27日 書き下ろし。