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美容院

 先日、美容院へ髪を切りに行った。

 子供の頃、母親が自分の行きつけの美容院へ連れて行こうとしたが、私は同じクラスの男子の手前、決まりが悪く、母親の行きつけの美容院へは行かず、自分で探して来た床屋へ行ったものだった。
美容院へ行くにはまだ時期が早過ぎたのだろう。

 それから何年も経ち、やがて思春期が訪れた高校生の頃になると、私のクラスの男子も続々と床屋のおじさんを体よく裏切って床屋を卒業し、美容院へとやたらに髪を切りに行くようになった。
何ともバカバカしい話ではあるが、その頃から私もずっと、床屋ではなく美容院で髪を切っている。

 私は、人に対しては意外と淡白なところがあるのだが、こういった美容院の類いに関しては、人一倍一途なところがある。

 今までも致し方なく美容院を変えたことはあったが、それでも数えてみたら三回だけである。

 担当の方の寿退社であったり、店内のゴタゴタに嫌気が差して辞めてしまったりと、担当者の変更理由は様々だったが、割と同じ店、同じ方に担当して頂いている。

 今、私を担当してくれている美容師さんも、そこの美容院に変えてから二人目の方である。

 初めて髪を切ってもらった時には、やはり、お互いどんなタイプの客でどんなタイプの美容師が、海のものとも山のものともつかない状態だったから、何となくよそよそしい感じだったが、それでも二月に一回 、三月に一回と髪を切ってもらいに行くうちに、互いの人間性というものが少しずつ、お互い長年の勘というもので分かるのだろうか。

 気が合うことが分かると、余程立ち入った話はしないが、毎回楽しく話をするようになった。

 つい先日、そんな彼女に髪を切られながら、鏡越しに涙がポロリの一幕があった。

 その話は、最近の世界情勢について、そして、私が先日書籍発売したドキュメンタリー『ルソン島に散った青年とその時代を生きた女性たち』に話が及んだ時のことだった。

 もう戦争によって世界中の人が傷つくことなく、平和に暮らしていけたらどんなにかいいのに、バカな奴がまた戦争を始めた。いつも巻き込まれて悲しい思いをするのは民間人だ、というようなことを他に客がいなかったから、ちょっと熱っぽく互いに話していたのだった。

 その時、彼女の母親の戦時中のエピソードに話が及んだのである。
 彼女の母方の叔父は第二次世界大戦で戦死したという。
 その母方の叔父が、戦地から彼女の祖母に当たる母親に宛てて、何通か便りを送って来たという。
その便りを皆が寝静まった後、彼女の母親が外に出て、月明かりの下、着物の袷の下から大事そうに息子からの便りを取り出して、彼女の母親に読んでほしいと差し出したそうな。

「お母さんが喜ぶなら」

と、娘である彼女の母親は心を込めて読んで上げた。すると、耳を澄ましてじっと聞いていた母親は、彼女の母親が読み終えるともう一回読んでくれと、彼女の母親にせがんだという。

 彼女の母親はまた、頼まれるままに一から手紙を読んで聞かせて上げたという。そしてそこに書かれていた一文を、美容師の彼女が私に教えてくれた。

「お母さんもきっと、同じ月を見ていることでしょう」

 そう書いてあったという。

「だから、きっとおばあちゃんも夜になって月が出るのを待ってから、わざわざ外に出て母に手紙を読ませのだと思うんだけど、叔父は母も同じ月を見ていると思って、そう書いて寄越したんでしょうね。そう考えると切なくてねぇ」

 いつも、何かの拍子にこの話になると、普段なら、この「月を見ている」の下りで彼女は涙が出て、まともに話せないのだと語ったが、それを聞いた私の方が胸に迫るものがあり、恥ずかしながら涙が出てしまった。私の大伯父も、そんなことを異国の劇戦地で思ったりしていたのだろうかと思ったら、涙を堪えることが出来なかったのである。

 やはり、あの頃の日本には、言わないだけでこうして町を歩いていて擦れ違う人の中の家族に、私の大伯父と同じように戦死した肉親を持つ遺族がいるのだと思ったら、やはり、今回、終戦記念日に大伯父のことを書いて良かったと、私は改めて思ったのだった。

 たまたま、今回は自分の担当をしてくれている美容師さんの家族だったが、きっと、身内からもその存在を忘れられている、そんな戦死者もいることだろう。
 今一度、国とその未来を生きる私たちのために死んでいった若い命があったことに、しっかりと目を向けて、そして、祈ってほしいと二人で話したのだった。


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