見出し画像

働く時間のふるまい

週末はソウル郊外のベッドタウンで人間観察をしたいと思って、ネットで調べていて見つけた記事(ソウルの郊外と通勤をみる)を参考に、ソウル北西部にある Ilsan New Town(일산신도시)を訪れた。ソウル中心部から1時間くらい、住宅地や商業施設が立ち並ぶエリアで、周囲には Ilsan Lake Park や Jeongbalsan Park といった広い公園が計画的に配置された緑豊かなエリアで、比較的所得の高い層が住む地域のようだった。

現代百貨店キンテックス店と新世界百貨店本店

ひと通り周囲を散歩した後で訪れたのが Hyundai Department Store Kintex(현대백화점 킨텍스점 / 現代百貨店キンテックス店)。ちなみに Kintex は韓国最大の国際展示場のこと。地域特性から考えて、所得に比較的余裕のある層が訪れる百貨店と考えていいだろう。ここに加え、ソウル中心部の明洞にある Shinsegae Department Store Main Branch(신세계백화점 본점 / 新世界百貨店本店)も訪問して各フロアを巡り、主に店員として百貨店の各店舗で働く人たちのふるまいを観察した。

立ち姿が美しいラグジュアリーフロア

まずは高級品を取り扱うラグジュアリーブランドのエリア。黒いスーツにネクタイなどの正装が多く、店舗の入口で立つ店員の姿勢がシャキッとしていて、お客さんとのやり取りも礼儀正しく丁寧。一方でお客さん馴れ馴れしい態度をしたり笑ったりしたとしても、店員側は姿勢や表情を崩すといった形でふるまいを変えることはあまりない。あくまでそのブランドの店員としての佇まいを保ち、洗練された立ちふるまいを心掛けているように見える。

ラグジュアリーフロアの店舗は、世界的に展開しているブランドも多いので、世界共通のマニュアルや研修プログラムを通じて、従業員のふるまいを統一しようとしているということもあるだろう。日本の百貨店で同じようなフロアに行けば同じようなふるまいをしていそうだと感じたし、おそらく中国でも同じだと思う。

対人距離の近い化粧品フロア

化粧品フロアも、ここも髙価格帯の商品を取り扱っているという意味ではややラグジュアリーなのだが、印象的だったのが、店員とお客さんとの距離。日本と比べると店員さんが少し親しげな感じというか、友だち感覚というか、店員とお客さんの距離がやや近い印象を受けた。ちょっと写真からではわかりづらいかもしれないのだけれど・・・。

遠くから見ると、どちらが客でどちらが店員だか、一瞬分からないことがあった。こちらは韓国語が分からないので見た目でしか判断できないのだが、お客さんに語りかけるような話し方だったり、店員さんの身振り手振りが大きかったり、時によってはお客さんの肩に手を乗せるようなしぐさを見せたりと、友人同士に近いようなふるまいをしている印象を受けた。

僕自身、百貨店の化粧品売り場で店員さんと話す機会があまりないが、資生堂の洗顔料(Shiseido Men)だけは10年くらい使っていて、ちょっと場違いだなあと感じながら百貨店の化粧品売り場に紛れ込んで、美容部員さんと話しながら購入することがある。こういうフロアの店員さんは日本では基本的に「低姿勢」だと思う。最初に声をかけるときも、少し申し訳なさそうに話しかけるとか、少し大袈裟な笑顔やふるまいと共に「気を使って話しかけていますよ〜」というニュアンスをを表現していることが多いように思う。お客さんが上の立場、店員は下の立場ですよ、ということを明確にしているといってもいい。韓国でもそういう素振りが見えることもあるが、日本と比べると店員と客は対等で、自然体で話しかけているような印象を受ける。僕はその方が心地よいし、日本の丁寧な接客は苦手である。ちなみに日本でも最初は丁寧な割に、一度話しかけてくると試供品を片手にどんどんセールスしてきたりしてきて、こちらも思わず話を聞かなきゃいけない義務感を感じたりして、上手いなあと思ったりするのだが・・・。

僕自身、上下関係をすぐに表そうとする日本の接客の仕方に、小さい頃から疑問を感じてきた。お客さんは殿様のように扱われ、店員がひざまずき下僕のようにふるまう、そう言う姿目にするたびに、なぜそのような「不平等さ」が礼儀正しいことになるのだろうと違和感を感じてきた。そこまで高級ではないレストランでも、立ったまま座った客と話したり注文を聞くことは礼儀正しくないとされていて、こちらが椅子に座っていると店員さんは椅子に座るのではなく地べたにしゃがんで接客をする、という光景を目にすることがある。それからお辞儀についてもそうで、軽い会釈くらいなら良いのだが、ホテルや飛行機でも立ち去る際などに時々、深々とお辞儀されることがあるが、出来たら辞めて欲しいなあと思ってしまう。

その一方で、そういう接客に憧れて就職する人もいる。僕の友人はレストランで働くのが小さい頃からの夢で「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と礼儀正しく言うことに喜びを感じるという。そんな彼女に対して「いらっしゃいませ」と言わないで欲しい、できれば「こんにちは」がいいな、とは言えない。それは、そうやってふるまうことに憧れて飲食業界に入った彼女の夢であり、彼女は飲食業の接客という「脚本」に従って、ウエイトレスを演じたいのだ。

ちなみに上下関係というと、店員と客との上下関係以外にも、上司と部下、先輩後輩や親子など、立場の上下(優先順位)によってふるまいを変えるという傾向がある程度どの社会にもあり、特に東アジアは儒教の影響を受けているという点で、さまざまな相違点がみられるように思う。このような礼儀や作法が歴史的にどのように作られていったのかという点については、これについてはまた後日、別の記事で詳しく考察したいと思う。

映画「ブルックリン」のワンシーン

そういえば店員の接客について書いていて「ブルックリン」という映画の1シーンを思い出した。それはアイルランド出身の主人公がニューヨークの高級百貨店で働き始めた時のワンシーン。

You treat every customer as if she is a new friend - すべてのお客さんたちと新しい友だちのように接しなさい

堅苦しい接客しかできなくて、会計を待つお客さんとのあいだに無言の時間が流れてしまう。遠くにいるマネージャーの視線を感じ、主人公はなんとか他愛のない会話をしようとするのだが、気の使いすぎでギクシャクして会話が盛り上がらない。それを見たマネージャーは「すべてのお客さんたちと新しい友だちのように接しなさい」と指導する。店員と客のような取引関係を表に出すような接客ををしてはいけない、たとえ店員と客であっても友だちのように接する、それがこのブルックリンの高級百貨店の接客のコードである。上顧客に対しても対等にふるまうことが、百貨店の品位を示しているのかもしれないし、分け隔てなくふるまうことが自由の国アメリカの価値を示すものかもしれない。礼儀正しい高級店の店員のふるまいといってもさまざまなアプローチがあり、深々とお辞儀をする日本の方法だけが「おもてなし」ではないということは指摘しておきたい。

できるビジネスマンの家電フロア

さて、百貨店の高層フロアにはサムスンやLGのショールームがあって、高価格帯の家電製品が取り扱われている。

ここの営業担当者のたちふるまいは「できるビジネスマン」といった感じで、ラグジュアリーフロアの接客とはまた違う、一流企業のビジネスマンというイメージを反映しているように感じた。

カジュアルな接客が印象的な紳士服・雑貨売り場

フォーマルな服を扱うエリアでも、ラグジュアリーブランドとはやや違い、知り合い同士が話しているような、比較的カジュアルなやり取りが見られる。紳士服ブランドで働くやや年配の女性店員は、決して馴れ馴れしいわけではないが、息子を気に掛ける母親のような親しみやすさを感じる。

雑貨やテーブルウェアを扱うフロアになると店員の立ち姿もかなりカジュアルになってきて、地域の商店街や露天で物売しているおばちゃんにやや近いふるまいになってくる。僕の視点からすると、百貨店でもマニュアル通りの型にはめられたふるまいではなく、その人らしさを残した存在で居られる、というのは、息苦しくなくていいなという印象を持った。東京の百貨店では、従業員の誰もが「百貨店の顔」としての品位を求められ、畏まった態度で同じような応対をする。確かに丁寧な接客かもしれないが、その人の心がどこかにいってしまったようで、窮屈な社会だなと思うことがある。感情を押し殺した表情で「いらっしゃいませ」と何度も言われると、お客さんは殿様で、店員はそれに服従する家来のような封建時代(あるいは主人である master と使用人である servant の関係)に戻ったような感じがして、何だか恐ろしいなと感じることすらある。

地下の食品売り場のギフトコーナー

地下の食品売り場では、ギフト特設コーナーが設けられていた。申込カウンターにはパソコンで注文内容や住所を客とやり取りしてシステムに手際よく入力していく若い店員がいて、人通りの多い通路傍では贈答用のフルーツや肉製品、魚の干物などが展示販売されていた。

あとで調べたところ、今年は9月10日が韓国の秋夕(추석 / 한가위)と呼ばれる日で、韓国では秋夕に親戚や取引先などに贈り物をする習慣があるため、百貨店も大いに賑わうようである。秋夕は、時期的には日本の「十五夜」や中国の「中秋節」に相当するものだが、行事としては先祖供養が中心であって日本のお盆に相当するもので、旧正月と並ぶ大切な大型連休とされている。

この贈答品売り場の接客を行っているおばちゃんたちが、なんとも印象的だった。売り場自体は今どきのおしゃれで洗練された感じのグラフィックなのだが、彼女たちの立ち姿や雰囲気は街の市場のおばちゃんのようで、親しみを感じた。通るたびに何度も声をかけられるのだが韓国語が分からないので、もしかしたら言葉遣いは丁寧なのかもしれない。でも身体的には百貨店の人として強制されたふるまいというより、その人自身が人生の中で積み上げてきた自然なふるまいだという印象を受けた。

東京のデパ地下でも、少し昔の試食コーナーの販売員は近所のおばちゃんのような馴れ馴れしい(?)感じの人が声をかけてきて、どこか人間的で親しみやすいを受けた印象があったが、最近では接客のトレーニングをちゃんと受けているのか、誰もがそつのない接客をするようになった気がする。

飲食店街の休憩時間

飲食店街でも印象に残るふるまいがあった。このフロアでは、ランチとディナーの間(15-16時)はほとんどの店が一時閉店となり店員も休憩するのだが、閉店中もランチが終わったお客さんがテーブルに残って話していて、半ば放置されたような状態になっている。閉店中はお客さんも追い出されてしまいそうなものだが、そこまで厳密ではないようだ。さらにこの上の写真に写っている男性5人は従業員で、通路側のかなり目立つところで食事をしている。東京でも地域の飲食店であれば、閉店した店の中で従業員がまかないを食べることはあるが、百貨店に入っている飲食店でこのようなお客さんの目が届くところで従業員がご飯を食べることは、一般的には避けられるのではないだろうか。店員さんだって人間だ、お腹が空くし休憩中にお店で調理したご飯を食べるのは当然だと思うけど、日本では、お客さんと同じテーブルで食べる姿を見せるのは礼儀正しくないという観念があるのかもしれない。

以上が百貨店での観察記である。百貨店には様々な企業が出店しているので、フロアや店ごとに異なるふるまいが観察でき、とても有意義だった。そこでお店を回りながら僕が考えたのは、仕事の時間のふるまい、ということについてだった。人は人生の多くの時間を仕事に費やしていて、仕事をするということは、その人自身ではなく役割を背負った「別の誰か」としてふるまうということではないかと感じていたからだ。

企業の顔、その人の顔

企業の中で働く人は、その人自身の顔とは別に、企業人としての顔を持っている。そのふるまいには、職業上の役柄があって企業のイメージに沿った「演出」のようなものが施されている。 同じ人でも、家族の中で話すときと仕事の会議で話すときのふるまいは違うし、同じような業種であっても、企業ごとの社風や世界観によってふるまいは変わる。例えば H&M から LOUIS VUITTON に転職すれば、立ち姿や言葉遣いをその企業にあったように改める必要がある。ふるまいを変えるということは、そこには何らかの脚本があり、脚本に応じたパフォーマンスをしている、というような側面を持っているのではないだろうか。

ふるまいを再設計する

そして、企業によってふるまいの脚本やパフォーマンスが異なるということは、ふるまいというものは、良くも悪くもある程度、誰かによって書き換え可能なのではないだろうか。悪い捉え方をすれば、私たちのふるまいは、国家や企業によって操られているということだし、ポジティブに考えれば、自分たちの意思によって、自分たち自身を変えていくこともできるということではないか。

僕はデザイナーとして「サービスデザイン」という分野の仕事をすることが多いのだが、実際にこの分野では、従業員がどのようにふるまうか(どんな言葉遣いやどんな動きをするか)まで設計することがある。例えばホテルのサービスデザインであれば、まずデザインの要素として客室やエントランスなどのインテリアはとても重要だし、ウェブサイトでの予約やスマートフォンをルームキー代わりに使えるシステムの使いやすさや心地よさといったことも重要なのだが、サービスを最も深く印象づけるのは、ホテルのスタッフたちとの出会いである。サービスデザインにおいては、スタッフのふるまいを変えていくために社員向けのマニュアルを作成したり、研修を計画したりすることもある。近年では、マニュアルや作法を一方的に押し付けるのではなく、社員1人ひとりが生き生きと主体的に働くことを大切にし、一律のマニュアルを設けない企業もある。だが一般的には、企業で働くということ、特にサービス業で働くということは、マニュアルや規範によって、従業員1人ひとりの個性を押さえ込んで、画一的なふるまいをさせる傾向が強いように思う。

もう少し、その人らしく働いてもいい

日本のスーパーやコンビニに行くと「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と決まって挨拶されるのだが、感情を押し殺した機械的な声がけだなと思って悲しい気持ちになることがある。その店員さんは、普段はもっとニコニコしている人なのかもしれないし、ちょっとボケっとしている人や冷静沈着な人もいるだろう。だから、いらっしゃいませの掛け声は、陽気だったり、物静かだったり、その人らしさがもう少し表れてもいいんじゃないかなと思うことがある。また留学時代の話になってしまうのだが、ロンドンのスーパーに行くとレジ係の対応はけっこう人それぞれで、イライラしていて商品の扱いが雑な人もいれば「チーズたくさん買うのね、ピザでも作るの?」みたいに気さくに話しかけられることもあって、そういうのが人間らしくていいなって思う。もし日本のスーパーで店員さんが「ピザでも作るの?」なんてお客さんに話しかけたら、失礼だと感じる人が多いかもしれないし、買い物の内容に口出しするなんてプライバシーの侵害だ、みたいなクレームになるかもしれない。でも店員さんも1人の人間として、実際にチーズたくさん買ってるお客さんを見たら「チーズたくさん買うな、何に使うんだろう」と感じることは自然だし、何の料理を作るか客側が答えたくなかったら「それは秘密だけど、あなたが食べたことのない美味しいものだよ」などと言い返せばいい(イギリスではそういうときの返答の仕方にも教養やユーモアを求められるところがあり、とりあえずこう答えれば無難みたいな画一的な答えがない)。

人生の多くの時間を費やす働く時間。自分らしさを押し殺すのではなく、自分らしくふるまえてもいいんじゃないかな、と思う。どちらの社会が優れているかということではなく、それが、人生経験を経て培ってきた自分の価値観なんだと振り返ることができた。そういう視点で、ソウルの百貨店は、僕の視点から見ると、人間的でなかなか感じのいい百貨店だった。

中澤大輔
芸術家、デザイナー、物語活動家


The Behaviour Project の記事一覧(6件)


いいなと思ったら応援しよう!