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「する」 と 「いる」 ー勉強が苦手な少年が見つけた居場所
受験シーズン真っ最中。この時期に、思い出す子どもがいる。私が学習支援の場を運営していた頃に出会った子どもだ。この子どもを通して、「する」と「いる」の居場所というものを気づいた話である。
勉強よりも大事だったこと
学校が終わると、必ず一番にやってくる子がいた。
それは、当時私が運営していた学習支援の場だった。当然、この場に来れば勉強をすることになる。自由に過ごせるフリースペースはなく、ここに来る子どもたちは皆、机に向かうことが求められていた。
彼は毎日、学校が終わると16時前にはやって来て、閉館の21時まで過ごした。つまり、毎日5時間という長い時間を、この場所で過ごしていた。
こう書くと、勉強熱心な努力家のように聞こえるかもしれない。
しかし、実際はそうではなかった。彼は勉強が得意ではなく、むしろ学校内では成績が最下位だった。学校の先生からは、何らかの学習上の障害を抱えている可能性があるとも聞いていた。
ある日、彼は数学の宿題に取り組んでいた。様子を見守っていると、なかなか手が進まない。当然のことだった。基礎となるはずの掛け算もあやふやで、7×6の答えをすぐに出せない。そんな状態で一次関数の問題を解かなければならなかった。宿題をやらなければならないと問題集を開くものの、結局、手は止まったままだった。
学習支援の現場では、このような子どもと出会うことが少なくない。学習の障害を抱えているケースも多く、知識がなかなか積み上がらない。彼も例外ではなく、毎日5時間通っていても、掛け算を完全に身につけるには時間がかかっていた。
それでも、彼は毎日ここに通った。勉強ができるようになりたいという気持ちもあったかもしれない。しかし、それ以上に、彼はここに「いる」ことができるという安心感を求めていたのではないか。休憩時間になると、支援スタッフと楽しそうに話し、人が通ると話しかけられるのを待っているようだった。
「する」 と 「いる」の居場所
臨床心理学者の東畑開人さんは、「人は居るために何かをしているように見えるが、実は居ることを確保するために何かをしているのかもしれない」と言っていた。この子どもにとって、この学習支援の場は、まさに「いる」ことを確保するための場所だったのではないだろうか。
この場所は、学習を「する」ための場だった。しかし、勉強が「できない」からといって、ここに「いる」ことが否定されるわけではなかった。むしろ、できない自分を受け入れてもらえる「居られる」場所だったのかもしれない。
人は「する」ことで居場所を確保できることがある。仕事場もそうだ。仕事ができる人ほど、その場に居やすくなる。成果を上げれば、さらに居心地はよくなる。
しかし、成果が出せなくなったとき、役割を果たせなくなったとき、仕事ができなくなったとき、とたんにその場に居続けることが難しくなる。
勉強とは異なり、仕事の世界では、能力に対して金銭的報酬が発生する。そのため、「できない」ことを受け入れ続けるのは難しい。
もし、5時間働いてメールを1通送信しただけの社員がいたとしたら、どうだろうか。無論、それを許容する職場はほとんどないだろう。
「する」ことで成り立つ居場所は、実はとても脆いのかもしれない。人はなんらかの理由で、「できなくなる」ことがある。病気はもちろん、配置転換や人間関係などによって、仕事がうまくいかないことは誰にでもある。
現在「居場所」だと感じている場所が、何かしらの「する」という行為のもとで成り立つ居場所だとすると、環境の変化で失うことになるかもしれない。
一方で、「いる」場所はどうだろう。何もしなくても、その場にいることができる場所である。その場における行為を問われない居場所である。
何らかの行為を基にしていないため、その行為ができなくなっても居られる。つまり、どんな状況であってもその場に居られる居場所なのだ。こうした居場所は、失いにくいため、脆くない。とても貴重な居場所である。
「する」と「いる」、それぞれを
そうした場は、どこにあるのだろうか。社会の中に、そういう場所はどれだけあるのだろうか。
「する」ことで成り立つ居場所と、居ることを問われない、ただ「居る」だけの場所、「居られる」居場所。そのどちらもが重要だ。
ただ、自分の居場所を振り返ると、それが何らかの行為(「する」)を通して成り立っている場合、その行為が何であるかを自覚しているほうがよい。たとえその行為ができなくなったとしても、居場所として失われないのであれば、それは「いる」だけで成り立つ可能性が高い。そうした場は、簡単には失われにくい。
彼が毎日通った学習支援の場は、勉強を「する」場でありながらも、「居られる」場でもあった。そして、そのような居場所が存在することの大切さを、私は改めて考えさせられた。
「居るのはつらい。しかし、それでも人はどこかに居なければならない。」彼が毎日そこに通い続けたのは、もしかすると、その「居る」こと自体が彼にとって大きな意味を持っていたからかもしれない。
スタバで受験勉強を頑張る高校生を隣に、そんなことを思い出しました。受験生の多くが、受験勉強を「する」ことを通じて得た居場所が、その後も「居られる」場所だったらなぁと願います。
読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、また!
興味ある方に向けて。
「人がただ“居る”こと」に向き合ったエッセイ。現場でのエピソードを交えながら、多くの問いを投げかけます。ユーモアと温かさを織り交ぜながら、居場所を考えるに最適な一冊。
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