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信じるとは

法話を聞く

お寺に生まれると、法話というのをよく聞く。特に、高校の時まではいつも家にいたので、法座の手伝いもする。そうすると、必然的に法話を聞く。

心に残るキーワードはいくつかある。浄土真宗では、信心という言葉を使う。親鸞聖人、さらには蓮如上人は特に信心が大事と御文章で強調される。

そう言った法話の中で、信じるという言葉には、疑うということが背後にあるというような話があった。

なるほどである。疑いがあって、信じるということがあるのだ。そもそも疑いがないことに、信じるとか言わないだろう。数学の証明は確かであって、その証明を信じるとは言わない。それは確かなことなのだ。

浄土真宗において信じるのは、阿弥陀如来という如来(仏)の存在とその働きである。この阿弥陀如来は、すべての命を救うという大願を立て、それを成し遂げた仏である。ゆえに、我々が人としての命を終えるとき、その命を必ず救い取り、極楽浄土に仏として生まれさせるのである。ここには例外がない。

これは、我々が極楽浄土に生まれたいと願うからではなく、阿弥陀如来が我々をそこに生まれさせたいと願い、その願いを実現しているからである。

前提知識なき結論

話は変わるが、結論がわかって、それを信じた、またはわかったとしてもあまりありがたさが感じられないということがある。正しい表現かはわからないが、前提知識なき結論とでもいうか。

私の専門は、パターン形成問題であるが、そこでは非線形の反応拡散系と呼ばれる拡散方程式の一種を扱う。それをシミュレーションすると、不思議なパターンが現れたりする。たとえば、次のシミュレーションは Gray-Scott モデルという反応拡散系と呼ばれるある種の拡散方程式をシミュレーション(数値計算)したものである。

一例。下のスライダーを動かすと模様が変化する。

不思議なパターンが現れる。これはこれで面白いとは思うが、そもそも、拡散方程式と呼ばれるものがどういう性質かを知らねば本当の面白さはわからない。どういうことかといえば、(ある意味)単純な拡散方程式においては、パターン(模様)が現れるどころか、形あるものは壊れるという世界観だからだ。砂の城は壊れるし、コップに垂らしたインクは広がって一様になる。拡散方程式の世界において、模様は消えていくものなのだ。

しかしながら!そのような拡散方程式の形をしながら、条件が整えば模様が積極的に現れる場合があるというところにこの話の真の面白さがある。もちろん、今は原理がわかっているので、ある意味これはこれで当たり前ではあるのだけれども。

実際、以前、学生さんがこのようなパターンが出てくる拡散方程式をシミュレーションしていて、驚いた顔をして、「先生!パターンが出ないことがあります!」と報告してきた。そりゃそうだろう、そもそもパターンが出るということには、様々条件が整った時で、ほとんどの場合は出ないのだよ。しかし、その前提知識がない場合には、パターンが出ることが当たり前で、出ないことが不思議になるのである。

前提となる知識がない状態で、最後の答えだけをみても、本当の意味でその面白さが理解できないのである。

そういえば、数学の問題でもそうだ。学校では数学の解ける問題を扱う。そして、暗黙の了解として、解ける問題のみがテストに出る。なので、解けるはずであるという心構えでテストにのぞむのだろう。ところが、実際には数学としてきちんと解がもとまる、または証明できる問題は全体の問題の中のほんの一部の一部であって、本来解けない問題の方が多いのだが、そんなことは習わないので、解けない数学の問題が入試に出ると、間違った問題とされる。テスト問題として不適切というのはそうかもしれないが、解けない問題でも問題としては正しいものはあるし、「この問題は解けない」が正しい答えであることもある。いや、そんな問題の方が圧倒的に多いのだが、それはそういった知識がないとわからない。

仏になるということはどういうことか?

さて、浄土真宗に戻ろう。

私は、現代というか近代に入って、法話というのがいまいち伝わらないようになっていると感じる。

なんというか、最後の答えだけ聞いて、それの意味がわからない。

お浄土に仏として生まれます。

はい、それは信じました。本当に信じることができました。これが確かだとしても、で??となるのではないか。もしかすると、他の宗派のお話を聞いて、「住職!仏にならないことがあるという話を聞いた!びっくりした!」という話が出てくるのではないか。

そもそも、仏になるとは?仏とはなにか?仏道を歩むとは?それらがあっての意味ある答えであろう。

おそらく、昔の人は、多くの命を奪うこと自体、やりたくはないが仕方ない。このようなことをしていては地獄に落ちるというようなことが実際「信じ」られていた。疑いなかったのである。その上で、往生間違いなしが疑わしく思われ、それを信じられた時に真の救いがあったのだろう。

そんなものではないと言われわれそうではあるが、私の実感として、浄土真宗という教えを真に理解し、活かす(軽い言い方ですみませんが)には、そもそもの前提的知識というか、前提となる信心がまずあって、その上での阿弥陀仏信仰であろうと思う。

そして、それ、すなわち前提となる信心には現代社会により適合するような捉え方?があるのではないかと思う。残念ながら、今の私には具体的なアイデアはないが、漠然と思うのである。

さて、私はどうなのか。正直、親鸞聖人が生きておられた時代の社会的状況が、今とあまりに違う、さらにいえば、ベースとなる考えかがが異なるために、なんらかの変換無くしては、本当の意味で親鸞聖人がお慶びになった、お念仏の真の意味はわからないのではないかと思う。どんな人でも救われるという、ある意味、びっくりするような結論ばかりが強調され、それで良かった時代とは異なる時代となっている点が置き去りになっている。ここは思い切った変革が必要なのではないかと感じている。

どうするのか?

わからない。私は、やはり一般の方に比べれば法話もたくさん聞いているし、このようなことを考える機会も多い。葬儀なのどの儀式を含めて、人間としての営みの中で一定の役割というか、重要な意味があることは確かであるし、多くの方もそのように思っておられると思う。一方で、やはり、何か勿体無さがある。

実際、さまざまな場面において、信じるということは重要な要素である。例えば対人関係で、相手のことが信じられないという場合には、そもそもそこにコミュニケーションが成り立たない。何をいっても信じられないのだから。コミュニケーションの前提として、信じるということがある。同様に、宗教から何か得るということがあるとすれば、そこには信仰、信じるということが必要となる。

ただ、ここで書いていて自分自身理解したことは、信じるというのにはいくつかの階層があって、その階層を理解せずに、例えば最上階の信じるを強調しても、そもそも何も伝わらないということである。

結局のところ、私が言いたいのは、この階層のことであって、最上階から始めずに、一階の信じるから始めなくてはならない。

そういえば、釈迦の話に、3階建ての家というのがあった。3階建ての家を見て羨ましく思った金持ちが、大工に3階建ての家が欲しい。3階だけで良いのだといって、困らせたというような話だ。3階建ての家には、1階と2階が必要であるという当たり前の話である。当たり前の話を、今一度思い出す必要があるように思う。

さて、どうやって1階と2階を建てて行こうか?もしかすると、僕にもなんらかの役割があるのかもしれないと感じた。

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