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阿弥陀仏のお救いからベクトルを学ぶ?

2024年9月29日(日)

 先日の秋の法座で、「阿弥陀仏のお救いから学ぶベクトル」という話をした。このタイトルの話をするには、ストーリーというと大袈裟だが、それなりの歴史がある。ただ、その歴史を並べ出したらえらく長い文書になってきて、これではダメだとなった。随筆?としては、あまり長いものは良くないと考えている。歴史については、また後日書こう。

 さて、先の法座のタイトルだが、多少違和感を持つ人もおられるだろう。浄土真宗の法座は、仏様の話を聞く(聴くと書くべきか)ところであって、決して数学の学習をするところではない。一方で、法座には仏様の話をずっと聞き続けてこられている方がお集まりになっている。そのような方々の前で、仏法の何たるかを知らない私が「法話」なんぞできるわけもなく、毎回「講話」と称して話している。

 仏法を語るなら、このタイトルでも変ではあるが、「ベクトルで学ぶ阿弥陀仏の救い」とすべきだろう。実際、最初はこういうタイトルでスライドを用意した。そう、スライドをつかった。他の若い布教師の方がスライドを使った法話で、お年寄りの絶大な支持を得ているのをみて、真似をした。僕としては、お話と黒板というスタイルが、何となくカッコ良い気がしてわざわざそうしようとしてきたのだが。実はスライドを使う方が得意だ。

 話がそれたが、「ベクトルで・・」の場合は、数学的知識、ここではベクトルの知識があることが前提であって、その知識をもって阿弥陀仏の救いを理解しようという内容になる。一方で、「阿弥陀仏の・・」の場合には、阿弥陀仏のお救いについてはすでに良くわかっているという前提で、ベクトルという概念を理解しようということになる。しっかりとした布教師の方々のお話は、阿弥陀仏のお救いのお話であって、これは何度となく聞いておられるから、法座に集まってこられる方々の前提知識量としては、「阿弥陀仏のお救い>ベクトル」なのである。よって、阿弥陀仏のお救いというトピックスからベクトルを理解するお話をすれば、ベクトルという概念も理解でき、阿弥陀仏のお救いについても、復習になるであろうということである。

 さて、私の「講話」はどうであったか?法座終了後に門徒様のお一人とお話をしてみたが、正直よくわからなかったとのことであった。反省せねばならない。内容については、また次にでも書いてみようか。そうすれば、内容的にもリファインされるだろう。僕としては、これは結構面白い試みだと思っている。 

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