写真が撮れる日、撮れない日
波が激しい。
こないだの石垣の海の話ではなくて、僕自身についてである。
感情の起伏が激しいのは、敢えてここに書く必要もないほど知人の間で周知の事実であるが、そうではなく僕のその日のパフォーマンス能力の振れ幅がとにかく激しい。(知人でない方には僕のパフォーマンス能力や感情の起伏の話なんて知ったこっちゃない)
どのくらい激しいかというと、陸上競技をやっていた頃は、嘘のような話であるが100メートルのタイムが1秒近くその日の調子に左右されていた程だ。
仕事でもそれは同じで、僕はその日の調子によって優秀な人材になることもあれば、同じミスを何度もして怒鳴られてしまうこともあった。
音楽においても同様である。声が出る日はどこまでも出るし、出ない日はどうやったって出ない。リズムが掴めない日だってある。
100mの話を除けば、おそらく共感できる人もたくさんいると思う。
その日の調子の良い悪いは、必ず誰しもある。
しかし、最近すごく不思議に思うことがある。
写真を撮る、という行為にも、どうやら調子の良し悪しが存在するということだ。
それはそうと、どんなに好きなことにも、何かしらストレスを感じることがある。
僕が死ぬ前に考えることは、間違いなく「音楽」についてだ。
音楽のことを愛している。
しかしそれゆえ、突き放してしまいたい時もある。
形にする難しさ、大変さから苦痛を伴うことがある。
僕に撮って写真は、おそらく最も楽しい「趣味」だ。
何かに縛られるわけでもないし、何よりも形にできるまでのスピードがとんでもなく速いので、ストレスはない。
気軽にできる趣味である。
例えはちょっと悪いかもしれないが、
音楽は家族。
写真は友達。
自分の中での区分はそんな感じである。
家族のことは後回しにしがちである。
友人への愛はやはり、家族とは違う。
誤解を恐れずにいうならば、それは家族に対してと比べると手軽で無責任の愛である。
愛には違いないが、他人ではあるためどこまで行っても家族にはなり得ない。
故に、色々な重さが違う。
どちらがどうということではない。
その二つの存在が僕を形成しているのである。
さて、話が少し逸れたが、写真を撮ることにも調子の良い悪いがあるということがとても不思議なことなのである。
仕事が早く終わると、疲れていても大抵は気分転換に写真を撮りに行きたいなと思う。
しかし、写真を撮りたいなと思っても、いざ撮り始めると全然ノってこない日というのは確実にある。
ただの趣味なのに。
ちっとも楽しくない日がある。
それは、調子が悪くてうまく撮れないからである。
趣味という認識である以上、てっきりカフェ巡りとか読書とか、僕にとっての写真はそういう類なのだと思っていた。
カフェ巡りや読書に、調子良し悪しはあるのだろうか。
写真は趣味なのか?
自問自答する。
仕事ではない以上趣味である。
そんなことを考えながら自転車で中野駅あたりを散策していた。
なぜわざわざ中野まで自転車で来たのかというと、なんとなくである。
この記事で載せている写真は、全てその日の中野で撮った写真だ。
ここ最近は精神的に落ちていたこともあり、空気の美味しい自然を求めて緑と海ばかり巡ったが、
美味しい空気じゃないほうが良い日もある。
調子良し悪しというのは、その日の自分の感覚と行動のズレから起こるのではないか。
この日のシャッターはいつになく軽かった。
2023年10月。
とある日の中野の写真である。