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家で看取る、を語る〈後編〉最期の時の過ごし方

農業で鍛えた身体と生きる目標を持って、100歳を過ぎても元気に過ごしていた髙虫千枝子さんだったが、103歳の初夏頃から少しずつ身体が弱っていった。そして、最期の時を迎えるまでの2ヶ月間を、大山診療所の元所長(2019-2021)朴大昊(ぱくてほ)医師をはじめ地域のスタッフに支えられながら大山町の自宅で過ごした。
後編では、千枝子さんを看取られた息子の勲(当時74歳)さんと勲さんの妻・澄子さん(当時70歳)に、千枝子さんの生きてきた時間や在宅介護の日々、最期の時をどのように過ごされたかを語っていただいた。

自然な流れで、家でみる

こうして、千枝子さんの在宅での介護生活が始まった。しかし、このまま家で生活を続けるかどうか、千枝子さんご本人やご家族の間で話し合いがあったという。

澄子「おばあさん、最初は遠慮して『病院に行きたい』って。うちらに迷惑がかかると思ったのね。褥瘡もできて本人もえらかった(しんどかった)んじゃないかな。『おじいさんとこ行きたい』なんて言うから、『行かれへんまだ!』なんて言って、なだめたりな」
勲「先生にみてもらえんということになると、入院する他ないだけど。先生が一生懸命来てくれたですけん。助かったです。コロナの時期だから、病院に行ったら家族でもなかなか会えんでしょう?だけん、家でみてやることができたのは特によかったです」

千枝子さんの夫・唯治(ただはる)さんは、69歳で亡くなられた。町の健診で再検査になったが、自覚症状もなく元気だったため再検査には行かなかったという。時間が経ってから病院に行ったところ、その日のうちに入院、それから一度も家には帰らず、3ヶ月後に病院で亡くなった。肺がんだった。

勲「それまでは元気。それも後から聞いただ。おばあさんはわかっとった。再検査って書いてあったのに、全然行かんだけって。あまり行ったことがないような人は、病院なんて行きませんが」
澄子「おじいさんが亡くなったって電話があって、それから私たちも病院に行ったんですけどね」
勲「母親はずっとつきっきりだったけんね。ずっとベッドの横の方で、床にベタにダンボールかなんか敷いて寝て。昔だけんね」

今から38年前、千枝子さんが65歳の時のことである。

千枝子さんが家で最期の時間を過ごしたことは、強い覚悟を持ってというより自然な流れだった。寝たきりで褥瘡ができた時は、訪問介護でウォーターベッドを導入。家族のみで入浴介助が難しいとなると、訪問入浴のサービスを。こうした手配を朴医師が中心となって進めてくれたことで、家族は助かったという。

「さあ、やるか!」と気合を入れる介護の日々

千枝子さんが103歳と長生きだったことも、在宅で看取ることができた理由だと澄子さんは話す。子どもが若いと、まだ勤めに出ていることが多い。ご本人や子どもの年齢やタイミングで、在宅介護の環境の整えやすさは大きく変わってくる。

一方で、朴医師の支えはあるものの、家での介護は勲さんと澄子さんが担っていた。その日々を振り返る際、お二人の語気が強くなった。

澄子:「朝7時。総入れ替え。下から上全部。それこそ6月だから暑いが。こっちの用事が済むでしょ、そしたらやる前は『さあやるか!』ってね、やっぱ気合入れて。手足顔を拭いて、オムツ替えて。私汗かきでね、冷房かかっていてもすごい汗」
勲:「結構力がいるもんだけね、オムツ替えでもね。重労働です結構。はい、おばあさんこっちだよ右だよ、左だよって」
澄子: 「私たちも若くないけんね。長かったらえらかったと思いますよ。10歳若くて60代だったら違うかもしれんけど、70歳過ぎるとね。だけん、お父さんは私がおったけんって言うけど、私もお父さんがおったけん、できた。期間が短かったっていうのもあるし、それまでおばあさんが元気だったっていうのも大きいかな」

千枝子さんは動けなくなるまで、新聞は毎日隅々まで読み、読み終えると折込広告を折ってゴミ箱を作りデイサービスに配っていた。その積み重ねがあったからか、身体が不自由になっても、最期まで頭はしっかりされていたという。

最期の時

千枝子さんは、8月のお盆の頃に亡くなられた。同居していた当時高校3年生と小学6年生だったひ孫さんも、最期の時間を千枝子さんと共に過ごしたという。

澄子「亡くなる前の日くらいから、呼吸がちょっとおかしいなって感じで。身体全体で息するだがね。あれおかしいなって。パジャマもね、毎日替えるでしょ、『おばあさんきれいにしようや』って。そしたら」
勲:「『構うな』って言った。『構わんでええ』って」
澄子:「きっとえらかったのね。ハッキリそう言ってね。しっかりしてるよね。お父さんが『まあええわ、明日の朝替えるだけんな』って。次の朝に亡くなったんだけど。
朴先生が来なるでしょ、ひ孫たちも来て。見たらちょっと目がね、開いてたんです。片目。みんながおらん時に亡くなったけん、会いたかったのかなーなんて感じたりしましたけどね。
で、朴先生がパカっと目を開いて、ひ孫たちにペンライトで『最期、こうして瞳孔が動かんようになるんだよ』って見せてくれて。看護師さんたちも『これが生の勉強ですよ』って。そんな感じで。なかなかね、病院だとね、見学で目開けたりなんかしませんが。やっぱり家でずっとお世話になった先生だけ、そういうのも示してごしなって。よかったな」
勲「最期はずっとひ孫が手を握ってましたけんね。女の子二人が」
澄子「亡くなるとね、だんだんと固まっていっちゃうのね。それでも『おばあちゃんー』って手をさするとやっぱね、なんだかぬくいのよ。さすってない方は硬くなっちゃって。えらいもんですね。下の子は、泣きながらずーっとおばあちゃんの手をさすってましたわ。
ほんによかったです。みんながおるとこでな。あげなが一番幸せですね」

ひ孫さんやご家族皆に見守られる中での最期だった。当時高校3年生だったひ孫さんは、現在看護師になる勉強をされているという。

最期の時をどう過ごすか。もしもの話を、気軽にできる機会を。

父・唯治さんを病院で、母・千枝子さんを家で看取られた勲さんと、その妻澄子さん。お二人が、在宅看取りについて感じること、そして自分だったらどこで最期の時を迎えたいかを伺った。

勲:「先生が看取りをしてくれるか、だわな。往診や訪問介護をしてもらえればええだけど、してもらえん先生だったら、もう病院に連れて行くより方法がないけんね」
澄子:「おばあさんが長生きだったけん、私たちも家に退職して家におったからみれたけど、早めだったら勤めに出ていてみられへん」
勲:「近くでみてもらえる先生と、家族の状況。うまい具合に両方が合えば、家で看取りはできると思いますね」

ご自身の最期の時は、病気だったら病院で、老衰だったら家で。お二人はそう応えられたが、技術が発達し、スマートフォンくらいの大きさの小型の超音波や在宅酸素療法といった機器のポータブル化が進んでいる。そして、かつては病院で点滴するしか方法がなかった薬も、貼り薬や僅かな量ずつ持続で薬を投与できるデバイスができることで、たとえ癌などの病気であっても、家でみることのできる範囲は以前より大きく広がっている。そのことをお伝えすると、そういう機器を家族が扱うことへの負担や不安について語られた。現時点では、「病気だったら病院で過ごし、最期は家に帰ってきて家の畳の上で」と考える澄子さんと、「病院に入院していたら、入院したままで良いかな」と考える勲さん。「あらなんで?」と、普段はあまり口にしないそれぞれの思いを語っておられた。

お二人の現時点での考えは、ご自身や家族の年齢、状況によって大きく変化していくだろう。まだまだ先かもしれないし、ある日突然やってくるかもしれない最期の時。いつか訪れる介護や看取り、そして死について、「自分だったらどうしたいか?」と考える機会を持っていけたら良いと感じる。口に出して家族と話してみたり、ちょっとノートに「もしもの話」を書いてみたり。みなさんも、千枝子さんやご家族の物語をきっかけに、ご自身の「いつかくるその時」を考えてみてはどうだろうか。

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インタビュアー:中山 早織
元書店員の助産師・コミュニティナース。2014年に東京より鳥取へ移住。現在は大山町で地域活動や聞き書きを行う。大山100年LIFEプロジェクトメンバー。

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