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ノブレス・オブリージュ あるいは 武士の矜持、そして我が「祖国」日本の総理大臣・安倍晋三

日本国内の新型コロナウイルス感染拡大を受け、安倍晋三・日本国総理大臣が遅きに失した「緊急事態宣言」を4月7日になって発令し、且つ総理大臣はじめ政府として日本国民に外出自粛を呼びかけている最中、当の安倍晋三・日本国総理大臣が首相官邸のインスタグラム、自身のツイッターなどに自らの私邸での「外出自粛」「自宅くつろぎ」動画を投稿した。ミュージシャン星野源(以下、共に敬称略)による「うちで踊ろう」動画への悪乗り。「悪乗り」という表現では遥かに及ばない、下劣な行為としか思えないが。

ツイッターを確認すると、一昨日、4月12日午前9時11分の投稿。今日、4月14日夕刻時点で、39.8万「いいね」を数える。ツイッターやインスタグラム では、例えば フェイスブックにあるような「ひどいね」の反応を示すことができない。それがあれば桁違いの数の「ひどいね」が記録されるものと信じるが、それにしても、この「いいね」の数の多さにも(まぁ以前から感じている類のことなので今更ながらあらためて、というものだが)驚く。

ツイッターはいま初めて確認した。インスタグラム は見ていない。要するに、吐き気がするような話題だったので詳しくチェックする気も起こらなかった。既に日曜夜のテレビの何処かの局の番組で紹介していたような気もするが、月曜朝の番組でも取り上げられており、おおよそのことは分かっていた。当然のように一般国民をはじめ各方面から批判を浴びているが、一方であれに対して肯定的な意味合いの「いいね」反応をしている人間が少なからず、いや動員なのかどうか分からないが(事実上のそれは勿論あるだろう、今回に限らず)少なくとも記録されている数だけで言えば、驚くほどの数のそういう人間がいるという事実にも、あらためて溜息が出る。

星野源自身は比較的恵まれている方の立場の人間だろうけれども(それぞれの困難は異なる背景を持つ個人個人が経験するものなので個別レベルの程度の比較それ自体は重大な意味を持たないが)、「有名」ではないアーティストから星野源のような「有名人」まで、多くの芸術家、タレント・芸能人、またアスリートなどが今、彼ら自身がそれぞれ相応の困難を味わっている昨今の新型コロナウイルス感染症パンデミックの危機下、彼らアーティストやアスリートからその他の「一般国民」に至るまで様々な背景を持つ多くの人々がしばらく前から「外出自粛」「自宅待機」「休業要請」といった言葉に象徴されるような非日常を味わっている、そのことに向かって、様々な工夫をして声を上げたり、何らかのパフォーマンスをしたりして、例えば人によっては孤独感に苛まれるようなことも有り得るような社会全体がいま経験している難局を、人々が繋がることで乗り切ろうとしているとも受け取れる「社会的行為」をしている。

星野源自身は、「家でじっとしていたらこんな曲ができました。誰かこの動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」と呼びかけているわけだが、この国全体いや国際社会全体に壁のように立ちはだかる第二次世界大戦後最大級の難局を、日本国の為政者、その最高責任者たる総理大臣・安倍晋三は、星野源のその企画に悪乗りして、犬を抱いたり、コーヒーを飲んだり、テレビを見たりして寛ぐ自らの様子を、国民に向かって見せたわけだ(安倍晋三が動画に添えている「国民向け」メッセージ、勿論あれについて知っている、あれを読んだ上での感想)。まぁ彼のダンスを見たいとは思わないが。

そもそもが、総理大臣としての安倍晋三が星野源の企画に乗ることは、今現在、日本社会全体が経験していることに関しての為政者としての最高責任者である人間がやるべきようなこと、やるに相応しいようなこととは到底思えず、彼が自らの責任の重大さを「適切に」あるいは「痛切に」認識していないということを図らずも露呈したわけなのだが、それだけでまずは十二分に「恥を知れ」と指弾されるべき、唾棄されるべき行為と感じたのだが、だからあとはもう「おまけ」なんだが、要するに、あの「ノリ」方が、どうにもこうにも醜悪だった。

今のこの時期、自らの生活が今般の難局からどのくらいの影響を受けているかは人それぞれだが、人によっては、実際に涙を流すほどに悔しい想いをした人とか、あの話題が出たテレビ画面、安倍晋三の顔に向かって何かモノでも投げつけたい、そんな衝動に駆られた人も少なからずいたのではないだろうか。

ノブレス・オブリージュというフランス語の言葉があって、むかし自分が自身のホームページ上に掲載していた「日記」の中でそれについて言及したことがあったのだが、今回の安倍晋三「自宅くつろぎ」動画の話題を知って、その「ノブレス・オブリージュ」をすぐに思い出した。今もネット上に残しているそのホームページでチェックしたら、15年前のいくつかの日記の中で、何回か書いていた言葉だった。

安倍晋三は日本という国の政治の世界における最高責任者であって、ついでに言えば、家系から鑑みても、「育ち」(いわゆる「育ちがよい」かどうかはさておき)や持てる「財」からして、世間の、「庶民」という言葉に象徴されるような多くの一般国民、最も困難な生活を強いられている人々からすれば尚のことだが、その平均と比べても、相当に開きのある社会的「身分」が高い(「偉い」わけではない、念のため)人間だと言っていい。その彼の「自宅くつろぎ」動画大公開を知って、彼にはそもそもその語感すら相応しくないとまで感じるが(笑)、しかしとにかく、ノブレス・オブリージュを想起したのだ。要するに、彼には、「ノブレス・オブリージュ」的な考え、その地位にあるからこそ自分は自分自身をどのように律しければならないのかという、その意識、自己認識が決定的に欠けているのではないかと思う。

ところで、ノブレス・オブリージュとは、一言で言えば、「高い身分に伴う義務」あるいは「高い身分には相応の義務が強制される」という意味合いになると思うが、これが言おうとしているニュアンスは、明治以前の時代の、社会的「身分」を隔てる階層が厳然として存在した時代、つまり武士の階級があった時代の日本の侍、「さむらい」の例にも相通じるところがあるような気がする。

つまり、これは最近、友人からもらったメールに書いてあったことの「受け売り」なのだけれども、少しだけ言い方を自分なりの言い方にすると、米や野菜を作るのでもない、その流通に携わるのでもない、そんな、現代から振り返れば当時として平時は「不要不急」の「仕事」をしていたかにも見える侍が、なぜ身分社会の最上級にいることができたのか、そのことの是非はさておき、それは何か誤ったことを行なえば最悪の場合、切腹せざるを得ないという武士道の不文律のもと生きた侍の覚悟と、それに見合う高潔さが彼らに求められるということがあってこそ、その身分社会が成り立たっていた側面があるということだ(身分社会や「切腹」文化のようなもの、それ自体は現代において肯定されるようなものではないが)。

話をもとに戻す。

上に書いた、昔の自分の日記に、当時の自分はこんなことを書いていた。ホームページだから純粋に私的な「日記」ではないけれども、何処か「おおやけ」的な媒体に載せるのでもなく、推敲もせずに自らに向かって投げた、その意味で作文技術上「稚拙な」文章だけれども、敢えて、というか何だか気分的に疲れてきたので、当時の日記文をそのまま以下に転載しておくことにしたい。

2005年 1月 8日(土)   パレスチナ、アムネスティ、オブリージュ

自治など絵空事、今もイスラエルの実質占領下にあり攻撃を受け、爆撃され、キャタピラー社製のブルドーザーで民家を壊され続けるパレスチナのガザ。そのガザでは、約500円でセーターを1着買うことができるそうです。詳しくは、今なら こちらのサイト(今はリンク切れ)の右側から詳細情報貼られてます。今週はこのパレスチナ「セーター募金」数着分とアムネスティ・フレンズ(まぁアムネスティのサポーター会員みたいなもの)の新年次分の会費を納めました。

自己満足ではなくて、ヘロヘロヘトヘトな毎日でも世界に繋がっていきたいという想いのごく一部を満たしているだけで、満足などしているはずがありません。ただ、こんな程度の行為でも、人よりは実は自分の気持ちの空白部分に少しでも水分を補給していきたいという動機がよりあろうとも、結果として支援を必要とする人たちの生活に僕の行為の何がしかが届けば僕はそれはそれでよいことだと思うし、僕はそれを望んでいる。

僕自身は僕がそれを望んでいること先に在りき、だろうか。だと思うけどな。... でもその望みが先だろうが後だろうが、そういう望みと『気持ち』があって結果として役に立つなら、僕はやはりそれはそれでよいと考えてるんだけどね。

はて、年末からのスマトラ沖地震・大津波被害報道を見ていると、とりわけテレビの映像の残酷さには圧倒されるものがあり、心落ち着かなくなったりもする。とりあえずの僕ができることと言えば募金程度。物質的にはより貧しい国のとりわけ貧困層に対し、僕は少しでも「持てる者」の oblige とも思って、世界へつながって自分の渇いた空白(のごく一部)を少しだけ潤したいという気持ちと共に、近いうちに志がつながりそうなところからどこかを選んで募金しようと思う。

... で、この oblige です。僕は大した身分でも立場でもないし、大した助けにもならないから僕の行為は大勢にさしたる影響もない微々たるものなわけですが(でもまぁ積もればナンヤラってとこかね)、報道を見てると、F1のシューマッハーが日本円にして10億円以上、タイのピピ島でロケしたことあるディカプリオが 1億円余、スピルバーグも億単位だったな、他にも女優男優、あるいはMBAの選手が得点の度に1得点当たり10万円だったか募金を加算していくとか、来週辺りアメリカの4大ネットのどこか(NBCだったかな)でポップス界のスターが出演してチャリティ番組放映されるとか、イギリスではスティングやU2等によるチャリティのライヴが計画されてるとか ... いろいろとエンタテイナー、アーティスト、アスリートの活動が聞こえてきます。あの韓国の『ヨン様』も 3,000万の募金。彼は新潟の中越地震の時もそのくらい寄付してた。日本人では今回のスマトラ沖大地震被災救援のためにヤンキースのゴジラ松井が 5,000万円寄付。彼はメジャーでそういうことも学んだかもしれないけど、たしか日本にいる時からそういうことを静かに続けていたアスリートだったはず。

アジアだろうが、アフリカだろうが中南米だろうが欧米だろうが・・・とはいえ、今回、被害の大半は「いわゆる」アジアです。インドネシア、タイ、マレーシア、スリランカ、インド、モルディヴ等々。

日本のロック・スターとかJポップさんとか、フォークさんとか(もういない?)、俳優とかアスリートとか、そういう人たちからはほとんど聞こえてこない。アメリカで活躍するゴジラ松井が数少ない例外的日本人?

そのうち、「あ、日本でもなんかやろうか ... 」ってなるのかもしれないけど、それってやっぱり普段そんな社会のこととか社会問題とか国際社会とか、そういうの関心ないからだよね。いや、本業があるんだからそう強く意識してなくても、どこか心構えっていうか、要するにアティチュードの問題だと思う。それが常日頃からあるからこそ、こういう事態に自然に声が出てくるし、コンサートの話もごく短期のうちに企画できてしまう。急に思いついて「どうしよう、ああしよう」だったら、もっと時間かかるか、あるいは時機を逸してやり過ごすだろうね。やっぱ元々アティチュードってもんがあるかどうかだと思う。

今日の朝日の朝刊にU2のボノ(ボノはゆえあって今現在は特にリスペクトしていないがここではその件は割愛: 今日ここに転載するに当たって加筆)とマックロ・ソフト(マイクロソフトのいくつかの否定的イメージから文字っただけ: 同上)のゲイツの連名によるオピニオンが掲載されていた。「先進諸国が貧困問題の解決に強い意志を示す時だ」って趣旨で、具体的な提案を含め、訴えている。今般のスマトラ沖地震・大津波の発生とは関係なくまとめられていたもので、世界の主要紙に寄稿しているのだという。

noblesse oblige (ノブレス・オブリージュ) ってのは元々フランス語で、意味は「高い身分に伴う義務」。スペース・アルク で確かめました。

元々はフランス語だけど、イギリス貴族なんかも、こういう考えと姿勢を持つべきとされているってことじゃなかったっけ?

この言葉の由来とか歴史とか僕は通じてないんで深入りはしないけど、これを「高い身分、社会的影響力のある立場、『持てる』境遇に伴う義務と責任」と読み替えてみたい。社会的階級や(国によっては)身分制度上の階層が厳然とあるのはヨカレアシカレ確か。貧富の差もある。一国の中にもあれば、国際社会の中にもある。富める国と貧しい国。『持てる』者と『持たざる』者。名士と庶民。有名人と一般人。スターと大衆。いろんな階層が国に世界に、本当に厳然として「ある」。

で、そこで更に僕はノブレス・オブリージュを広く捉えたい。それは、要するに取り立てて高い身分だの立場だの、あるいは裕福だったりせずとも、おそらく僕のような『転がっている石』にすらあるべきもの、転石にだってあったらよいアティチュードだと、僕はそう僕自身に向けて捉えている。

僕は、シューマッハーとかスピルバーグとかロック・スターとか俳優とか有名アスリートとか、そういうところから緊急に支援を必要とする人たちを支援しようという声が挙がり、自ら立ち上がっているのをみると、それはたぶん、ある種の noblesse oblige みたいなものを彼ら彼女らが持っているってことじゃないかと感じる。思いつきの売名行為みたいなものなどでなく、おそらくは自然とそういう想いが湧き上がってくる、そういうことが可能なアティチュードを、彼ら彼女らは常日頃から意識せずとも持っているってことじゃないかと思う。『我が祖国』日本では、名士の皆さん、スターの皆さんの中に、ほんまにそういうものが少ない。何につけ、淡々と日々を過ごし、ある時は冷淡ですらあるように感じる。(いくらかの例外を除いて)アティチュードがないんだよ。

ちょっとここで余談。オイル・ダラーでお金持ちの湾岸諸国が今回の世界を揺るがす大惨事に冷たいってんで国際社会で非難され、サウジがテレビで国民に募金を訴えて、政府の支援額よりも多い金額が集まってきたらしい。その時のエピソードには笑え、しかし落ち着くと暗澹となるものがある。イスラムの指導者がテレビ番組に出て、「非イスラムのシューマッハー(彼ってドイツ人だっけ?)でさえ、イスラムが大半を占める被災民(これは主としてインドネシアとかスリランカの一部を指す?)に対して巨額の援助をしているんだから ... 」って訴えたんだって。でもね、シューマッハーが例えばクリスチャンだとして(何でもいいけど)、「被災民はムスリムが多いが、それでも支援しよう」などと考えたと思うかね? 

そんなことで何か逡巡でもあったと思うかね。そんな境界線は最初から越えている ... っていうか、最初からないと言っていいくらいじゃないかと思うんだけどね。もちろんキリスト教にしろイスラム教にしろ仏教にしろ、宗教的熱情による被災民支援というものもあるだろうし、それはそれでいい。しかし、異教徒だけど助けようとか、そういうこと考えてるのかね。僕は無宗教だからこれも深入りできないけど、どの程度の人たちがこういう考え方をし、どの程度の人がこういう考え方をしないのか。どんなもんじゃろか。

もう一つ余談。今回、日本を含む多くの「富める国々」が被災国被災民支援としては最大級の支援を表明している。日本の額も巨大だ。で、例えばこの、現時点で日本政府が表明している5億ドル(500億円余)というのは、要するに納税者が出資しているってことだ。僕らは社会の装置として依然として国家という装置を必要としているが、その国家に僕らは税を納め、その資金によって自らの生活基盤を含む社会のインフラを構築し、時には自らを守ることになる制度を保障させようとする。だから僕らは政治に関心を持たなければならないのだ。税を納めれば義務を、オブリージュを果たした、そんなことはない。そいつがどう使われるのか、僕らは国家を監視していかなければならないってわけさ。

も一つ余談。1年くらい前にイランで大地震があって、当時、国際社会全体で 10億ドルの救援額が表明されたそうだ。だけど現時点での実績は 1億7千万ドルだとか。政府のエライさんが表明するのはできる、その後が実は伴ってないって実態があったりするらしく、ちょっとこれにはビックリしたね。これでビックリする僕はちょっとウブだったのかね。コトぼど左様に、僕らは国家を監視していかなくちゃならんらしい。

... ところで、民主国家では主権は在民なわけですが、国家を実務的に動かす政治家や官僚(役人)はこれはもうどう考えたってノブレスですね。つまり、相当に義務と責任は大きいです。

ジョン・レノンが歌うように、
Let's hope it's a good one WITHOUT ANY FEAR.
it は新しい年。それを世界と読み替えたってレノンは許してくれるだろう。

(以下にリンクを貼り付けた音楽ビデオ、今は亡き John Lennon の歴とした公式 YouTube アカウントによるこのビデオは、なんとバカバカしい YouTube の検閲方針のために若干の制限を受けていますが、YouTube 上で視聴する場合、画面に現れる「指示」に従って単にクリックすれば視聴できます。以下の貼り付けビデオを直接クリックする場合は全く問題ありません)

歌詞の拙訳 http://dailyrock.konjiki.jp/utaxmas.html (OS次第で文字化けする可能性があります)

ニール・ヤングが歌うように、
A little love and affection
In everything you do
Will make the world a better place

人間には家族も、仕事も、社会もみな大切なものだ。家庭と会社と社会。会社はシンボリックに言ってるだけね。自営の人もいるし、農民も役人もいる。人間は家族と共に生き、『会社』でも仕事し、そしてもっと広い社会に生きる。 もちろん、バランスの妙は、人それぞれ。僕は僕のバランスとアティチュードを考えるのさ。

関連日記

ついでに、その半年後に「ノブレス・オブリージュ」に言及した日記(こちらは自分に向かって更に「つぶやき」化したような独り言的な文ですが、ここでも自分に向けた備忘録としてリンク貼っておこうと)

長くなっちまったけど、これで今日は終わり。麻生太郎(副総理・財務大臣!!)のマスクを耳からぶら下げながら会見をするような姿に「見事」なまでに象徴される彼の醜悪さと共に、安倍晋三の莫迦さ加減はもう「醜い」と形容していいレベル。連中の頭や心持ちでは理解できないような話は彼らに相応しいものではないんだろうが、しかし彼らへの批判に際して彼らのレベルに合わせていたら、こっちの脳味噌まで溶けてしまいそうだ。

彼らの下劣さとは別に、彼らの社会的地位や責任の重さがどういうものかについてはきちんと考えながら批判していくことも、それなりに大切なのだろうと思う。

なお、安倍晋三の低レベルとは全く趣が異なりますが、新型コロナウイルス感染拡大の危機下にある世界、そのことに人類はどう向き合うかについてのイスラエル出身の世界的に著名な歴史家・哲学者の論考を批判した、前回の note 投稿も、時間のある方は合わせて読んだいただけたらと思います。


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