なぜか巨大な蓮の花に添えて ー Strawberry Fields Forever (歌詞和訳)
タイトル上の写真は、隣り町にあるハス園で 4年前の夏(自分の覚書用に、2016年7月23日)に撮った、妻の手とハスの花。ある意味嬉しいことにあまり多くの人に知られていないので訪ねても人だかりができて混んでるようなことはまず無い「ハス園」で、そこは文字通り、開花している時にさえ行けば、綺麗な(そして見事なまでに大きなサイズの)蓮の花を鑑賞できる花園なんだけれども、なぜか、いや、自分ではユエあってとも言えると思うけれども、あそこは自分にとって実際にある「ハス園」であると共に、想像上の「桃源郷」みたいなところでもある。
既にタイトル上のスペースにほぼ入っているからくどくなるけれど、写真のフルサイズはこれ。
ハスの花の写真のことはそのくらいにして、さて、いつも「拙訳」って書いていたんだけれども、本音では「良薬 口に苦し」ぐらいの「良訳」だと思っているので、遜って(へりくだるってこう書くのか、 謙るとも書きます、合わせて謙遜)「拙訳」と書いたりするのは今日からやめようと思う。
John Lennon の "Strawberry Fields" とは
昨日「良訳」を投稿した "Nowhere Man" については、Beatles ファンとか古い言葉だけど「洋楽」ファン以外にはそれほど知られていない曲かもしれないが、この "Strawberry Fields Forever" の方はけっこう有名だと思う。これも John Lennon の作。
1967年2月13日(Beatles のコアなファンでもない自分はこの辺、細かいところになると Wikipedia など頼ってしまうけれども)に Paul McCartney 作の "Penny Lane" と共にいわゆる両A面シングルとして発売されたもの。アルバムとしては、同年11月27日にリリースされたアメリカ盤の方の LP "Magical Mystery Tour" に収録されている(このアルバムは日本では何と 1年も遅れてリリースされたようだけれども)。
1960年911生まれの自分にとっては、幼稚園時代の終盤から小学校に入学した年にかけてのこと。当時は大事な大事な家具みたいな扱いで大切にされたテレビなるものが、初めて田舎の我が家の小さな小さな食卓に置かれてまだ間もない頃だったと思う。3歳年上の兄貴の影響もあって音楽関係含めかなりませガキだったけれど、しかしその時点では、海外モノの音楽と言えば、まだ「トムとジェリー」の主題歌と「トッポジージョ」(こっちは当時意識なんかしてなかったけれどイタリアだったんだなぁ)の主題歌とかぐらいしか知らなかったんじゃないか。とのっけから話が逸れた。
さて、この歌のタイトル上で言及され、そして歌詞の中でも繰り返し登場する "Strawberry Fields" とは何のことかというと、ってな話題となると、わりと「ネット上で共有されるまでは多くの人が単純に『いちご畑』だと思ってたのですが」というような前振りをしてから説明する類の解説を見るけれど、そうだろうか。
あれは実際の「いちご畑」そのものではなく、John Lennon の故郷リヴァプールにあった、そして彼が子どもの頃によく遊んでいた、"Strawberry Fields" と呼ばれた孤児院(具体的にはキリスト教プロテスタントの一派による救世軍が運営していた児童養護施設)のことだった、というような「裏話」めいた豆知識(豆知識とはいえタイトルと歌詞に繰り返し登場するフレーズの意味についてのことだから重要な情報なんだけれど)は、インターネットなるものが世間に広まるよりもずっと以前から、Beatles ファンにはもちろん、多くの、あるいは決して少なくない「洋楽」ファンにとっては常識的なものだったのではないだろうか。
あの場所は Beatles や John Lennon のファン、あるいは音楽を愛する多くの人たちにとって、言わば「巡礼の地」の一つにも数えられるような場所で、いま音楽ライターをしている息子も、イギリスに半年ほど留学した時だったか、就職後の「二足の草鞋」時代(DJ入れたら三足かな)の会社員の時にイギリスに出張した時だったか、とにかく "Strawberry Fields" を訪ねていて、その時に撮った写真を見せてもらったことがある。
鑑賞する側の表現行為
というわけで、"Strawberry Fields" は苺の畑ではないんだけれども、そしてその言葉が直接的に意味するところや、あるいは作者の John Lennon がメタファーとして使ったとしたらその意味するところなどを考えてみるのは、詩とか歌詞とかいったものを鑑賞する上で王道的な、まぁ正統派の方法ではあるのだろうけれども(そしてそれはそれでもちろん大事なことだと思うけれども)、一方で、詩にしろ、歌詞にしろ、あるいは小説にしろ、また音楽にしろ、いや芸術とかアートとか、まぁ何と呼んでもいいけれどもそういう種類のもの全般について言えることは、作者から作品を受け取った側、読者とかリスナーの立場にある者の方にも、その作品をどう解釈するのかということにおいての一定の自由はあると思う。つまり、それは、自分なりの解釈をしてしまう、もっと言えば、自分にとってはこういうものだと受け取って鑑賞しようとする、そんな自由。
まぁ極端に言えばどう解釈してもその人の勝手ではあるので、一定のどころか、完全なる自由さえあるのかもしれないけれども(しかし素材を得てからの解釈だから一定の条件付けがされていて厳密に言うと「完全なる」自由ではない)、少なくとも、詩にしろ小説にしろ歌詞にしろ音楽にしろ、あるいは絵画にしろ彫刻にしろ何にしろ、鑑賞する側がその作品を受け取ってどう解釈するか、どう想像力を働かせるのかということは、それはそれで読者やリスナーである鑑賞者側のある種の表現行為なんだろうと思っている。
つまり、詩や小説や歌詞や音楽のメロディや、あるいは絵画や彫刻などなど、そうした諸々の分野の作品それぞれを作る人、詩人とか小説家とか作詞家とか作曲家とかアレンジャーとか歌手とか楽器奏者とか画家とか彫刻家とか、そういう人たちだけが表現者なのではなく、読者やリスナーなどなど、作品を鑑賞する側もそれを鑑賞し想像力を働かせ、この詩はこの歌はこの絵はこの彫刻は自分にとってカクカクしかじかこれこれこういうものだろうと受けとめて想像したり鑑賞者なりの理解をしたりしていく過程において、表現者というようなものになっているのだと思う。
つまり、あ、「つまり」繰り返した、兎に角、兎にも角にも、ウサギにもツノにも(字数稼ぎか)、そうした作品を鑑賞するという行為は決して受動的であるばかりの行為ではなく、かなり能動的な行為にもなり得る。その鑑賞者側のある種の「表現行為」が、さらに第三者の鑑賞に堪える「表現」に結実するかどうかは、また別問題であるけれども。
なんかカタイことたくさん書いたなぁ。
というわけで、自分のような職業翻訳家でない人間が自分の好きな英語の歌の歌詞を日本語に訳して表現するのも、これはこれでけっこう能動的な作業で、自分なりの表現行為だと思っているんだけれども、上に書いたように、それが第三者の鑑賞に堪えるかどうかはもちろん別問題。
でもまぁ言えることは、歌詞の翻訳っていうのは自分、あるいはその訳す、訳した時点の自分がどんなであるか、どんなであったかを理解することにもつながるところがあって、それはそれでわりと楽しい作業なのである。だから、何年も前に訳したものを振り返ってみて、あ、あの時の自分はこんなだったのかもなぁと感じたりする時があって、それはそれで面白い。あ、でもこれは自分自身にしか関係ない話で、少なくともこの部分は第三者の鑑賞云々カンヌンとは関係ない話だな。ま、いいや。兎に角、どうして「とにかく」はウサギにツノなのか昔から思ってるんだが、なぜか調べたことがない。ただの当て字かな。話がズレた。例によって、前振り、長過ぎ。
Strawberry Fields Forever (歌詞和訳)
この歌、周囲と波長が合わない俺のテーマ・ソング。というのは、今現在の思いつき。.. かもしれない。
Strawberry Fields Forever (The Beatles) ー written by John Lennon (October 9, 1940 – December 8, 1980)
*以下、歌詞と、17年前の初夏に訳した時のままの和訳詩
** 一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
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いっしょに行かないかい?
ストロベリー・フィールズに行くところなんだ
リアルなものなんてない
思い悩むこともない
ストロベリー・フィールズ・フォエヴァー
眼を閉じてみれば生きることなんて楽なもの
見るもの全て本当にはわかっちゃいないのさ
ひとかどの人物になるのは難しくなったけど
全ては何とかなるもの
僕にとっちゃ大したことじゃない
いっしょに行かないかい?
ストロベリー・フィールズに行くところなんだ
リアルなものなんてない
思い悩むこともない
ストロベリー・フィールズ・フォエヴァー
僕の樹には誰もいないって思う
つまりそれが高いにしろ低いにしろ
誰も調子を合わせられるものじゃない
だけど大丈夫さ
それもそんなに悪くないって思うよ
いっしょに行かないかい?
ストロベリー・フィールズに行くところなんだ
リアルなものなんてない
思い悩むこともない
ストロベリー・フィールズ・フォエヴァー
いつも、いや時々、僕のことを思う
でもね、それも夢の世界だってわかってるよ
僕は思ってる、いや、つまりね、全て間違いなんだ
僕はどうにも調和してないみたいだな
いっしょに行かないかい?
ストロベリー・フィールズに行くところなんだ
リアルなものなんてない
思い悩むこともない
ストロベリー・フィールズ・フォエヴァー
ストロベリー・フィールズ・フォエヴァー
ストロベリー・フィールズ・フォエヴァー
クランベリーソース
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ネット上ではここ。自前のホームページ上。ただし、2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化け。
訳した時の日記
2003年5月31日(土) STRAWBERRY FIELDS FOREVER
ビートルズの STRAWBERRY FIELDS FOREVER を訳した。ジョン・レノンの STRAWBERRY FIELDS FOREVER です。
この曲、ジョンが子供の頃に遊んでたリヴァプールの孤児院だか感化院だかをイメージして作った曲だってことだけど、僕の大学時代、ジョンが殺された時にニューヨークのラジオ局の特別番組が日本のどっかの局で流されてて、DJが何か語った後に流れた曲がこれだった。
ビートルズの曲の中でもかなり好きな曲。僕は妻との結婚式でこの曲を使った。二人で会場に入場する時に使った曲だ。僕らには大事な曲だね。
最後の方の歌詞が難しい。まぁこんな意味だろう。後で家にある青盤CDに入ってた訳詞を見てみたけど、けっこう違う訳だな。だけど僕の訳詞の方が断然いいぜ(笑)。 someone ってのが「ひとかどの人物」でこれが同じ訳だったのはご愛嬌かな。そうそう使う言葉でもないし、わからんけど、もしかしたら以前見たことがあって頭に残ってたかもね。まぁ勘弁してもらおう。他にイイ言葉が思い浮かばないし、無理に変えるのもなぁ。まぁ僕の訳は気に入ってます。自画自賛です。ま、いいじゃん。
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ネット上ではここ。ただし、上に書いたようなワケで、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると、OS のヴァージョン次第で文字化け。
Nowhere Man (歌詞和訳)
この歌も John Lennon の作で、且つ、そこそこ「周囲と波長が合わない」人っぽい感じの人間のことが歌われているようなので、昨日投稿したばかりだけれども、しつこくリンク貼っとく。
Happy Xmas (War Is Over) (歌詞和訳)
そうだ、John Lennon の歌の歌詞は他にもいくつか訳したことがあって ー Beatles 解散以降のソロ作 "Give Peace a Chance", "Imagine", "Happy Xmas (War Is Over)" ー うち、Happy Xmas (War Is Over) については、過去にここ note 上に投稿したことがあった。
ユヴァル・ノア・ハラリの「人類と新型コロナウイルスとの闘い」論考批判
上にあげたのが、John Lennon の "Happy Xmas (War Is Over)" の歌とその歌詞和訳を、イスラエル・パレスチナ問題に絡めて取り上げた投稿だったので、ついこれもしつこくリンク貼っておきたくなる。
いまだ世間が礼讃しまくるイスラエルの歴史家・哲学者ユヴァル・ノア・ハラリの「人類と新型コロナウイルスとの闘い」論考を批判した投稿。彼の論の当たり前に「いい」ところは認めつつ(しかしあの論って本当にあれほど誉められるような、つまり「知の巨人」でなけれな言えないほどのレベルの立派な論説だろうか、それについてすらかなり疑問)、一方でその「立派な」論に潜む欺瞞もしくは「知の怠慢」と思われることについて指摘した、件の論の批判的考察。
Strawberry Fields Forever なクロード・イーザリー
1945年8月6日の広島への原爆投下の際に原爆搭載機エノラ・ゲイ号の先導機としてのストレート・フラッシュ号に搭乗、気象観測と原爆投下が気象状況上可能かどうかの判断という役割を担い、エノラ・ゲイに「準備完了」「投下可能」を連絡するという重大な任務を果たした、当時のアメリカ空軍のパイロット、クロード・イーザリー。
この人は文字通り、「周囲と波長が合わない」人だった。精神異常と看做されて、精神病院で生涯を終えた人。しかし本当に異常だったのは彼なのか。
4日前に投稿した自分のテキストから一部、引いておくと、「彼はアメリカ国家とアメリカ社会から英雄視されるが、当のイーザリー自身は巨大な殺戮行為の影に怯え、自らの罪に悩み苦しむ。しかし、罪を意識するにもかかわらず、国家や社会は彼に罰を与えない。イーザリーは、社会が自らに罰を与えるべく、郵便局を襲って強盗するという挙にまで出る。しかし、彼が罰を求め罰を受けるに値すると考えた行為が『ヒロシマ』に関わることである以上、その彼の罪は、彼を含む一団に原爆投下を命令し、そのうえ彼を英雄に仕立て上げているアメリカの国家の罪に行き当たることになる。結局、イーザリーは英雄の役を降ろされ、精神病患者の役を演じさせられる。彼は決して演じていないが、国家が、社会が、彼の周囲が、彼にその役割を押し付けたのだと僕は思う。イーザリーは、精神病院に強制的に入院させられ、隔離収容されてしまった。」