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韓国 1984年1月の11日間 〜 1983年4月に日本を発ってから足掛け10ヶ月目, 全斗煥軍事独裁政権時代に旅した初めての韓国, 板門店も

1984年1月と言えば, 1980年5月の光州事件からまだ4年足らず。北はまだ金日成の時代。因みに日本のいわゆる「韓流」ブームの第一次の時期は2003年から翌年にかけて放映された「冬ソナ」が切っ掛けということになるが, 韓国ブームらしきものは実はそれ以前にもあった。1970年代後半には韓国の歌謡曲が流行った時期があったし, 1980年代に入ると, 歌謡の世界だけでなく文化全般から国情の広範囲にわたる関心が高まった時期があった。1984年には関川夏央の「ソウルの練習問題」がベストセラーになり, また, 別冊宝島の「朝鮮・韓国を知る本」といった書籍も発売されている。当時買って読んだそれらの本は今も大事に持っているが, 1983年4月26日に横浜港から当時のソ連のナホトカを目指して日本を発った筆者が, ソ連・欧州, 中東(日本から見れば「西アジア」なのだが, いやしかしエジプトも行ったから, となると日本から見た場合ひっくるめると何と呼ぶのか), そしてアジアの各国を旅して, 最後に旅する外国として初めて韓国を訪れたのは 1984年1月。上述の「ソウルの練習問題」が刊行されたのが同じ1984年1月で, 「朝鮮・韓国を知る本」の刊行は同年2月。要するに, そういう時期の韓国を旅したのだった。

当時はまだ全斗煥軍事独裁政権の時代。ソウルの街中の様々なところに韓国軍の兵士が立っていたし, 都市間を移動するバスには途中, 兵士が乗り込んできて乗客の身分証明をチェックする(少なくとも1984年1月当時は, 外国人旅行者である自分自身はパスポートを提示すれば済むような簡易なチェックではあったが)といったことも行なわれていた時代だった

韓国にはこれまで 5回(間違い→ 6回, ただし 2022年10月に 7回目の韓国旅行をした:2023年1月26日 加筆)訪れている。最初がこの時の 1984年1月(21日から31日までの11日間), 以降は 1985年2月, 同9月, 翌1986年にも訪韓し(2023年1月26日 加筆), そして妻と一緒に旅した 1988年7月だったか8月だったか, とにかく同年9月17日に開幕したソウル・オリンピックの直前, そして仕事, 出張で行った 1993年12月。それがこれまでの最後で, その後の28年余りの長きにわたり, 隣国に行く機会を持たなかった。

しかし, 今はいまだ収束しないコロナ禍でなかなか行けないが, 息子が日本で就職していた企業を退職して(会社員, DJ, 音楽ライターの二足ならぬ三足の草鞋をしていた)2019年12月に韓国に留学し, 今はソウルにある韓国企業の会社員として働きながら, 現地で音楽ライターとしての活動も続けている。そんなわけで, この機会をつかまえて, いずれそう遠くないうちに, カミさんと一緒に韓国を再訪しようと思っている(2022年10月に 7回目 = カミさんは 2回目 = の韓国旅行をした:2023年1月26日 加筆)。

韓国の前までの話 〜 1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル, エジプト, 再びのトルコ, 更にイラン, パキスタン, インド, タイ

.. と大きな大きな見出しをつけながら, 以下には タイ旅 note へのリンクを。その note の第1章には インド旅 note へのリンクが 8つあり, 最初のアムリトサル 旅 note の第1章に ソ連からパキスタン, つまりインドに入る前までの道のり, その各国各都市・街・遺跡などの旅 note へのリンクに関する説明を掲載している。

さてさて,

韓国に関心が向いた切っ掛け, 1980年5月の光州事件 〜 韓国映画(2017年)「タクシー運転手 約束は海を越えて」, そして 白竜の歌(1980年発禁, 1981年自主制作・再発) 「光州City」

光州事件(当時, 光州事態とも呼ばれていたと記憶, 今もこの表記はあるかもしれないが)とは, 当時はまだ大統領にのし上がっていなかった時期に軍事クーデターで権力を掌握した全斗煥らが反体制派だった金大中氏(全羅南道出身, 後の大統領)らを逮捕しあらためて民主派の大弾圧を始めたこと(1980年5月17日)を切っ掛けとして, 全羅南道光州市を中心に起きた民衆蜂起。翌5月18日に始まり, 学生・市民約20万人が参加, 政府軍から激しい暴力を伴う弾圧を受けて多くの犠牲者を出しながら(死者は後の「公式」発表の数字で154名, 負傷者は3,000名以上, しかし死者数を含め実際の被害者の数は更に多いのではという説もある), 5月27日に当時の韓国政府側によって鎮圧されるまで続いた。

1960年911生まれの筆者はその時, 北大の2年目の学生で札幌市に住んでいたが(*1), 1980年5月の何日だったか, 当時購読していた朝日新聞(*2)の朝刊紙面に掲載された, 光州事件でデモや集会を弾圧され逮捕された学生達が韓国政府軍によって数珠繋ぎにされたまま連行されていく様子を写した写真に衝撃を受け, それまで日本との関係を含めまだまだ知識不足だった隣国・韓国にその時から関心が向くようになったのだった(そして幾代にも跨り長く続いていた韓国の独裁政権と日本のやはり長年の自民党政権の間に政治的な癒着関係が続いていたことも知るようになる)。

というわけで, 以降ずっと関心を失ったことのない国, 韓国に興味を持ち始めた切っ掛けは, 極めて不幸な出来事ではあった。以下の写真は今日, ネットから手に入れたものだけれど, 上述の新聞に掲載された写真はおおよそこういうものだったと記憶している(この写真そのものだったかもしれない)。

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光州事件と言えば, 今からほんの4年半ほど前に公開された韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」(2017年, 原題は 택시운전사, つまり「タクシー運転手」で英語のタイトルはずばり "A Taxi Driver")がその光州事件の時の実話を基にしたもので, 映画の出来も素晴らしく, 大ヒットして日本でも話題になったから, あの映画を通してあらためて光州事件を思い出した筆者と同年代や, あるいは初めて知ったような若い世代の日本人も多かったのではと思う。自分の場合は, 公開から2年ほど後にテレビで放映されたものを, カミさんやたまたま我が家に来ていた息子と共に観たのだけれど(息子は既に以前にも観ていた)。

あの映画は素晴らしい映画だったが, 筆者が「光州事件」絡みで思い出すことと言えば, 上に書いたような切っ掛けで韓国に関心が向くようになったこと, 当初は政治や歴史への関心が強く, 在日韓国人の政治犯救援運動や金大中氏救援運動, 更にそれらが発展した「日韓民衆連帯運動」的なもの, また当時, 社会問題化していた旧外国人登録法による指紋押捺の強制に反対する運動などに参加したことなどが挙げられるが, この他に「光州事件」に直結するものとして思い出すのは, 1980年に在日韓国人2世が日本についてではなく韓国に関わることを歌ったにも拘らず, 日本において発禁処分になった, 歌手(後には俳優も)白竜の歌「光州City」。

あの歌は翌1981年に自主制作盤として再発売され話題を呼んだが, 当時, 筆者は在日韓国人を含む学生や市民の仲間と一緒に, 白竜を札幌に招聘してコンサートをしてもらうことを企画し, 無事成功, コンサートが終わったその日の夜は札幌のススキノだったと思うが居酒屋に行って白竜と杯を交わすことまでさせてもらい, その時のことは今もよく記憶に残る思い出になっている。もちろん白竜の方は筆者個人のことなど憶えていないはずだが(当時, 日本人の側が在日韓国人の仲間が白竜と話したいだろうと酒席で遠慮し, 筆者自身もあまり多くについて白竜と直接的に会話をすることはしなかったのだが, 今になってみるともっと話しておけばよかったなと思う), 自分にとっては若い時の貴重な思い出の一つだ。

後に俳優として有名になってからの白竜。迫力あるよねぇ。

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若い時の白竜。意外にも思えるが, バンドのメンバーとして右端に写っているのは, 後にヒット曲を連発する小室哲哉(筆者が仲間と共に白竜を札幌に招聘した時のバンドに小室氏が在籍していたかどうかは記憶にない)。

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ついでに言うと, 発禁後の再発「光州City」が収録された同名タイトルの白竜のアルバムには元 頭脳警察 の PANTA が楽曲を提供しているが(PANTA も頭脳警察の時代にアルバムの発禁処分を経験しているし, ソロになってからも当時の韓国の諜報機関 KCIA が歌詞に登場する PANTA&HAL の歌「マーラーズ・パーラー」のその歌詞の部分がミュートされたりもしている, 日本ってほんと表現の自由が危うい国だね昔っから), その PANTA&HAL が最初のアルバムをリリースする前のバンドメンバーの中に小室哲哉がいたらしく(白竜のバンドに在籍する前の時代), けっこう意外続きで面白いものだなぁと感じる。人の印象を簡単に決めつけてはいけないねと自戒!

さて, これが白竜の歌「光州City」なのだが, このヴィデオには実際に「光州事件」の最中と直後に撮られた写真がたくさん使われていて, 極めて貴重は映像資料にもなっている。 

この歌をリリースした頃の白竜の歌, よく聴いた。レコードも買った。この歌は当時, 結局, 公式にはリリースできないで, 日本の超絶くだらないレコ倫による発禁処分に遭い, 翌年の自主制作盤によって広く世に知られることになった。白竜がタケシの映画「その男、凶暴につき」など, 映画に出て俳優として有名になっていくのはそれからしばらく後のことだった。

当時, この歌がなぜ発禁処分になったのか。韓国の軍事独裁政権と長年癒着関係にあった自民党政府の韓国政府への配慮が影響したのか, その辺りはあらためて調べてみないと正確には分からないところがあるのだが, いずれにしても, 近年も表現の自由を巡って様々なことが起きている日本, 実は昔からその面でもかなりの危うさを持っている国なのだということ。

*1 学生時代。ただしこれは大学3-4年次の1981-82年の札幌の思い出(この note では白竜や光州事件のことに言及していない)。

*2 学生時代から長きにわたり購読していた朝日新聞。もともと特別に信頼を寄せていた新聞などではないが, 2016年の年の瀬に(バカバカしくなって)購読を止めた。購読を止めたことに関係するのは以下のリンク 2) の note に書いたこと。

1) ボブ・ディランの不都合な真実 ー 1982年イスラエルのレバノン侵略とパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれたイスラエル支持ソング

2) ボブ・ディランの不都合な真実(2)ー または 私が 37年余り購読し続けた「朝日新聞」の購読を止めた理由

3) ボブ・ディランの恥ずべきイスラエル支持ソングと、サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件 38周年

4) ボブ・ディランのイスラエル支持ソングは, 1982年のイスラエルのレバノン侵攻と同年9月のベイルートにおけるパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれた

5) 言えば 音楽のテイスト的にもね。WHO DID IT BETTER? "ALL ALONG THE WATCHTOWER" ー OF COURSE, Jimi Hendrix (歌詞和訳)

さてさて, 本章の最後は注釈の中ながら脱線話題の連発になってしまったが, 

「ソウルの練習問題」 と 「朝鮮・韓国を知る本」 は, 帰国後に買って読んだ

以下の写真は, いま我が家の書棚から引っ張り出してきた, 本 note の冒頭で触れた, 1984年1月刊行の関川夏央著「ソウルの練習問題」と同年2月刊行の別冊宝島「朝鮮・韓国を知る本」。後者には当時の韓国人留学生への取材など実に様々な話題が掲載されており, いま読み返す, 見返すと, ある種の歴史資料にもなるように感じられる。この他, 同じ頃(数ヶ月ぐらい後だったのではと思う), 当時の雑誌「平凡パンチ」に韓国のモデルや女優のセミヌード写真が掲載され, 韓国への持ち込みが韓国政府によって禁じられた, しかし韓国の若者が当然ながら欲しがった, なんていうサブカル的な話題も, 今となっては懐かしい(件の「平凡パンチ」, 今はおそらく値打ちものになっているのかもしれないが, 当時, 筆者も記念に買っていて今も我が家の何処かを探せばわりと直ぐ出てくるはず)。 

韓国に関心を持ったのは前章に書いた通りで当初は政治向きのことが切っ掛けだったので, 雑誌に掲載されたルポにしろ論文にしろ, また書籍にしろ, 政治を含む堅めの「社会」を扱った本もだいぶ読んだが, しかしあの頃の(今に何処かで繋がっているはずの)「韓国ブームのはしり」として, こういう本はやはり懐かしく感じるものがある。

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さてさて,

次章以降は写真中心。

初めての韓国で撮った写真, パート 1 〜 慶州(4枚)

以降は, 本 note 後段の章でリンクを付す, 昨年2021年1月30日付の note 板門店 1984 〜 「韓国」全斗煥/「北朝鮮」金日成時代に訪れた冷戦下の南北分断ライン に写真を掲載した時のテキストを転載する(ただし一部, 昨年の note に載せてなかった写真には新たな短文テキストを付ける, また昨年の note には他の note へのリンクなど載せていて体裁が違うが, ここでは写真キャプションだけ利用)。

今日はこの後、ほぼ写真だけなのだ。まずは韓国の古都、慶州 경주, カタカナ書きするなら「キョンジュ」。日本で古都と言えば京都もしくは奈良だけど、雰囲気は奈良に近い。そもそもナラって韓国語で書くと 나라(カタカナ書きするとまさしく「ナラ」), その意味は「国」なんだけど、奈良は朝鮮半島からの渡来人による貢献が極めて大きい(日本の)古都。奈良市だけでなく、奈良時代より更に前の飛鳥時代の史跡がある奈良県明日香村に行ったことがあるが、あそこに行くとますます、朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちがどれだけ当時の先進文化を伝えてくれたのかが分かる。

韓国の旅の話からやや逸れてしまったけれど、とりあえず写真の一部。当時、韓国で新婚旅行と言えば慶州か済州島。今はもう日本と変わらず大抵の人は海外なんだけど(コロナ禍の今は日本も韓国も気の毒!)。

仏国寺 불국사 .. カタカナ書きするなら「プルグクサ」。この「おっさん」のようなジーパン男は当時23歳の筆者。

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同じく仏国寺にて。この仏塔の前に写っているのは, 上の写真を撮ってくれた韓国の人。実は彼とは, 筆者が前年1983年5月にデンマーク・コペンハーゲンを旅していた時に知り合った(*1)。彼は日本で言えば電電公社に当たるような韓国の公的機関の職員だったのだが, 前年5月は勤務先からスウェーデンのストックホルムにあるエリクソンでの研修に派遣されていた時期だった(韓国の一般の人が観光旅行で外国を訪れるのはほぼ不可能だった時代, しかし当然ながらビジネス関係や留学であれば外国での滞在もあり得た)。筆者がコペンハーゲンにいた時, たまたま彼は研修期間中の休暇の時期で, その機会を利用してストックホルムからコペンハーゲンにやって来ていた。そこで知り合い, 話していたらいろいろと気が合い, 別の宿にいた彼が筆者がいたユースホステルに移ってきたりもして親しくなり, 筆者がこのバックパッカーしながらの旅の最後に韓国に行くつもりだと言ったら, 連絡先を教えてくれて, タイのバンコクからの飛行機で韓国ソウルの金浦空港に着いた時に迎えに来てくれたのだった(1984年1月21日)。そのソウル初日は, 当時, 彼が住んでいた姉夫婦の家にお世話になったのだが, 彼が翌日から同僚と出張で慶州に行くということで一緒に行くかと言われ, 翌1月22日には慶州まで同行, 韓国式の旅館にも同宿した。ここでの写真は, 彼らの出張中の休みの日に, その彼と一緒に仏国寺に行った時の写真。撮影はもちろん筆者。

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同じく(下の写真の撮影は 1枚目と同様, 上の写真の彼),

仏国寺の仏塔の前で。

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こちらも仏国寺にて。上述の通りで, 当時の慶州は済州島とともに, 韓国の新婚さんの新婚旅行の「メッカ」だった。「メッカ」は勿論もともと今のサウジアラビアにあるイスラームの聖地の名前で, ここは仏教のお寺だから, なんか妙な表現になったけどね(笑)。

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以下は, 

2枚目の写真に写っている韓国の人と知り合った場所でもある, デンマーク・コペンハーゲンの旅 note, この note では詳述していないが, カーニヴァルの見物の際は彼も一緒だった。

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*2 こちらは時期的に上の旅 note の前に当たる, 同じくコペンハーゲン旅 note

さて, 次は, 

初めての韓国で撮った写真, パート 2 〜 ソウル(パコダ公園, 6枚)

前章と同じく, 本 note の後段にリンクを付す昨年の note に掲載した時のテキスト等を転載する。

パコダ公園は現在はタプコル公園と呼ばれるのかな。小さな公園だが、1919年3月1日、大日本帝国からの独立宣言が読まれ、「三・一運動」(삼일운동)と呼ばれる民衆による独立運動が起きた場所で、ここには当時の模様を表わすレリーフ彫刻による展示がある。

筆者は戦後の日韓関係史においては日本だけでなく韓国政府サイドの問題にも批判的であり(しかしコトの問題の主体はあくまで日本)、とりわけ近年の「もつれ」は韓国側の責任「も」大きいと考えるし、韓国側の「市民運動」の一部(一部!)に犠牲者・被害者よりも「運動」(の継続)ありきのようなタイプの人たちがいてそれにも批判的だが(そういう「運動」自己目的化タイプの「運動」はもちろん日本でも決して少なくないと思うが)、しかし、今の日本にはウンザリするほどの数の韓国・朝鮮に対する偏見で凝り固まった日本人がいて、ああいう「嫌韓」「反韓」連中は心底くだらない奴らだと思っている。

少なくとも戦前の日本が何をやったのか、そして戦後の日本はどういう態度だったのか、一通り知るべきだと思うが、残念ながらあの種の「嫌韓」「反韓」連中の殆どは「パコダ公園」みたいなところに行って展示されているものを見ても、何も感じない、もしくは自らの国の弁護しか頭に浮かばんのだろうなと思う。

写真は、以下の note 投稿 4点の下。

1点目は在日コリアンの手記。続く3点は本 note 筆者によるもの。

終戦記念日に靖国へ辿り着かなかった在日コリアンの手記

靖国神社 (1869-1945-2001-2020) 〜 ネオナチまがいの排外主義者が首都で18万票を獲得する国 (2020)

「朝鮮人を皆殺しにしろ」、「日本が嫌いな韓国人、ぶち殺してやるから出て来い」、「日本が嫌いな日本人は叩き殺す」と街中で叫ぶネオナチまがいの極右排外主義者が首都で18万票を獲得する国の敗戦75周年記念日 〜 そして靖国神社 (1869-1945-2001-2020)

靖国神社と極右排外主義者についての投稿をしてから「スキ」激減、いや元々少ないから激減は大袈裟(笑)、ただし避けられてる可能性はある、かもしれない。まぁ、かもね、というレベルだけれど。 ... (まぁこれは「大袈裟」だった, 笑)

この下、ようやく、「パコダ公園」で撮った写真 6枚。

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さて,

初めての韓国で撮った写真, パート 3 〜 ソウル(景福宮, 徳寿宮と南山タワー, 9枚)

ここでも, 本 note の後段にリンクを付す昨年の note に掲載した時のテキスト等を転載する。

景福宮(경복궁, カタカナ書きするなら「キョンボックン」)で撮った写真が 6枚、徳寿宮(덕수궁, 同「トクスグン」)も美しいところだけれど大した写真が残ってない2枚、残る1枚は南山タワー前の筆者、23歳なのにオッサンぽい。1982年札幌にて旅行資金を貯める仕上げで居酒屋「村さ来」でバイトしてた頃、飲みに来る同年輩のお姉ちゃん(同年輩なのにお姉ちゃん!)に「山本くんって三國連太郎に似てるぅ〜」って言われてたんだってば、バイト当時の俺は21歳、その時の三國連太郎は59歳!

景福宮

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16世紀末の豊臣秀吉の日本による朝鮮侵略(「文禄の役」1592~1593, 「慶長の役」1597~1598)における被害等について展示されている場所がある。

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同じく, 경복궁 (景福宮) にて撮影。

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これも, 경복궁 (景福宮) にて。

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同じく。

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やはり 경복궁 (景福宮) にて撮影したもの。雪が積もっていたのだ。

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덕수궁 (徳寿宮) にて。カタカナ書きするなら トクスグン。「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を経た韓国, ソウルは当時, 既にこうしたビルが目立つような都市でもあった。

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同じく 덕수궁 (徳寿宮) にて撮影。

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ソウル・南山タワー(現在は「Nソウルタワー」と呼ばれる場合の方が多いかも)前にて、当時23歳ながら、既にオッサン風情な筆者。

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さて, 次は, 

北との境界線, 板門店。

初めての韓国で撮った写真, パート 4 〜 板門店(18枚)

1984年1月30日 の, 北との境界線上, 板門店。前章までと同様, 後段の章にリンクを付す昨年の note に書いたテキストを転載。

板門店(日本ではこの漢字を日本語読みして「はんもんてん」、韓国語・朝鮮語では 판문점, カタカナ読みするなら「パンムンジョム」)。ここは、南と北の間の軍事境界線上にある地区。1953年7月27日、南側の国連軍と北側の「朝鮮人民軍」、「中国人民志願軍」との間で停戦協定が結ばれ調印された場所で(日本でいうところの「朝鮮戦争」は 1950年6月25日に北側の侵攻により始まったが、韓国ではこの 6.25の韓国語 육이오 (ユギオ) をもって同戦争を意味する)、同年10月以降は停戦監視のための「中立国監督委員会」と「軍事停戦委員会」が設置されている。「停戦」要するに「休戦」中なので、既に70年近い歳月が流れながら、いまだ「戦争」は正式に終結していない。

筆者がこの場所を訪れた時は、ソウルのロッテホテルから団体ツアーのバスが出ていた(服装指定があってバックパッカーには辛いものがあり、靴など市場に行って新たに買うしかなかった)。今も同様かな。ただ、おそらくは今はだいぶ変わっているに違いないと思うのは、ツアーガイドによるプロパガンダ解説。当時はプロパガンダは北だけの「専売特許」ではなく、(北ほどでなかったにしろ)南側もおそろしくプロパガンダ的な説明が多かった。ガイドのおばさんの日本語による(日本人も日本人以外の外国人もツアーに参加するから英語ガイドと日本語ガイドが二人乗車していたのか、一人が二言語喋ったのかよく憶えていない、おそらく前者だと思う、当時の日記を見返せば分かるが今日はとりあえずこの程度で)案内の中身がすごくて、今でもその印象が強く残っている。要するに、「北には鬼が住んでいる」と言わんばかりの説明で、実際、そんな言葉使いを含めた日本語による説明だったと思う。今、時代は、その意味で「ある程度」、変わったのだろう。

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さて, 次は,

初めての韓国で撮った写真, パート 5 〜 釜山(1枚) 

1984年1月31日, 釜山港で, 下関港に向かうフェリーを待ちながら, 釜山の街の方を撮ったもの。

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その後, 1985年2月, 同年9月に韓国を旅した際は釜山にけっこう長く滞在して様々なところを歩いたけれど(釜山女子大の超美人女子大生と知り合って案内してもらったりしばらく連絡を取り合っていた懐かしの思い出はいつか note にするのか, と自問自答, 笑), この時の始めての韓国の旅では釜山に長居しなかった。

懐かしいと言えば ♫

日本語ヴァージョンはこれ ♫

さてさて, 

釜山港から, フェリーで日本へ 〜 下関港が見えてきた, 1984年2月1日(写真2枚)

さてさて, いよいよ, 

大学に入学してからバイトで資金を貯め, 最初はインドへの旅のつもりだったのが, 徐々に計画を膨らませ,

当時はあって今はもうないソ連(今はロシアの他, ウクライナなど複数の国々に分かれる)から始め, その後, ヨーロッパ諸国, さらにトルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル, エジプト, 再びのトルコ, イラン, パキスタン, インド, タイ, 韓国を旅してきた, その 1983-84年 のバックパッカー「貧乏旅行」「放浪」もどきの旅も, 終わりに近づいてきた(下関に着いてからは, 初めて広島を訪れ滞在, その後, とりあえず静岡県の田舎に帰ったのだが, 広島の旅 note はまた後日!)。

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おお, 日本ではないか(笑)。笑うことないか。帰ってきたなぁ, いろいろ嫌いな点もありながら, 生まれ育った故郷の国として愛着は勿論ある日本へ。

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さて,

板門店 1984 〜 「韓国」全斗煥/「北朝鮮」金日成時代に訪れた冷戦下の南北分断ライン

これは昨年, 2021年1月30日の note 投稿。目次はリンクの下に。

目次
1. 前説としての「放浪」もどき旅 〜 「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」にてざっくりと振り返る
2. なぜ「放浪」もどきの旅をしたのかというと 〜 "Every Picture Tells A Story" (Rod Stewart) ♫
3. ようやく本題: 韓国 1984年1月 〜 まずは 慶州
4. 韓国 1984年1月 〜 その 2:ソウル(景福宮, 徳寿宮と南山タワー)
5. 韓国 1984年1月 〜 その 3:ソウル(パコダ公園)
6. 韓国 1984年1月30日 〜 板門店
7. 今日の BGM はこれにしよう 〜 이날치 (LEENALCHI, イナルチ), 범내려온다

今の韓国の音楽から, その 1 〜 이날치 (LEENALCHI, イナルチ), 범내려온다 ♫

本章は, 前章でリンクを付した昨年の note の最終章から, そのまま転載。

筆者はその昔、ハングルと韓国語会話を少しだけ覚えたことがあって、悲しいかな使わないと忘れるもので既にだいぶ記憶から消えているものの、今もハングルは読める。범내려온다 はカタカナ書きすれば「ホンネリョオンダ」ぐらいでいいのではと思う。

朝鮮の伝統音楽パンソリと現代のダンス・ミュージックを融合したような感じのもので、これはほんと、癖になる、心地よい中毒性ある音楽。「音楽」という言葉の枠に収まらないものがあって、パフォーマンス・アート的なものと言っていいだろうか。

下に YouTube 上のミュージック・ヴィデオへのリンクを貼るけれど、이날치 を含む現代の韓国のポップ(特にインディ系)がどんなであるか知りたいなら、例えばこれ、2020年9月26日付の記事。書いてるのは筆者の息子(息子と言っても1992年917生まれ、917も象徴的な月日だな偶然にも、それはともあれ、だから当然ながら大人)、一昨年12月から韓国ソウル在住、少なくともこの 3月までは引き続きソウル!

一昨年というのは, 現時点ではもう一昨年の更に前年, 2019年のことだけど。それと, 2022年1月の今現在も彼は韓国ソウル在住。

以下のリンク, アクセスにほんの少し(数秒程度)時間がかかるかも。

ではでは、

범 내려온다 〜 이날치 with 앰비규어스 댄스컴퍼니 ♫

さて, 今日の note では, もう少し, 韓国の音楽の話題を。

今の韓国の音楽から, その 2 〜 ペク・イェリン 백예린 と イ・ラン 이랑 の歌を聴いてみよう ♫

いま筆者がとても気に入っている韓国の音楽について, さらに, 二人の女性歌手の紹介。曲は以下に YouTube のリンクを貼るけれど, 彼女らについては詳しくはこちらを。

1) ペク・イェリン 백예린 率いる The Volunteers は, 上掲リンクの「2021年韓国インディー・ベスト10」の 7番目に紹介されている。

Let me go! 〜 The Volunteers (더 발룬티어스) ♫

これは極めて上質なロック・サウンド。

2) イ・ラン 이랑 については, 上掲リンクの「2021年韓国インディー・ベスト10」の 2番目に紹介されている。以下では, クワイアを従えて, ドラマチックな展開の楽曲を。

オオカミが現れた 늑대가 나타났다 〜 Lang Lee 이랑 (イ・ラン) ♫ 


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