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クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇


クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 前説

前説は、昨日 note 投稿したもの。以下のリンク先。

前説も併せて読んでいただけると嬉しいけれど、もちろん強制できないし(あたり前田のクラッカー .. という TVCM を知っている人の「中には」筆者の音楽嗜好に同世代的共感を覚えてくれる人もいると思う、以上「脱線」)、次章の「本篇」だけ読んで反応していただけるのでも十分に嬉しい。

で、とりあえず本投稿「本篇」の方を読んでいただき、興味を持たれたら、「前説」の方もあらためて見ていただけるというのでもありがたいなと。ただし「前説」はあくまで「前説」、次章に掲げるテキストが「本篇」。

クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇

以下は、前年2001年の夏に筆者が HTML 独学して開設した HTML のみの原始的なウェブサイト(要するにホームページ・ビルダーなどのホームページ作成用簡易ソフトを使わないで立ち上げた基礎的 HTML のみのホームページ)に載せた、2002年5月12日付の日記、今もそのホームページ上に掲載したままにしてあるその日記からの転載。

転載ではあるが、分かりやすくするため、文中にある「ちょっと廻り道してみた」自問自答部分のところでは、「自答」の箇所のそれぞれの上に、あらためて中見出し的に該当する「自問」を太字で置き、また、その他の箇所でも強調したい部分を太字にする、幾つかの箇所で改行を施すなど、文章の改竄を伴わない編集のみしてある(ホームページ上のテキストへのリンクは以下の転載「日記」およびそれに続く余談的な文章の下に付すことにする)。

2002年 5月12日(日)  クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か?

この日記を読んでくださる方は、先に 5月11日(土)付の上の日記 ブラック・ゴスペル・ワークショップ (転載にあたっての注:この箇所、ホームページ上では該当の日記にリンク, 該当の日記は昨日 note 投稿した「前説」テキスト = 本 note 投稿の前章にリンクあり = の中に掲載) を読んで下さい。この経験があって、以下の思考があります。

まずは上の日記 (転載にあたっての注:本 note 投稿の前章にリンクを付した昨日の note 投稿「前説」テキストの中で転載した2002年5月11日付日記) で取り上げた「引っ掛かり」をもう一度。

クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為は可能なのか?(それはつまり、個人で CD でも聴きながらゴスペルを口ずさんで音楽的に楽しむ、ということではない。)

私とパートナーはクリスチャンではない。今後もクリスチャンになるということは想像出来ない。もちろん、この世に、いつか我々は死ぬということ以外に確かなことはない、という言い方をすれば、どんなことでもこの先を断定することは出来ない(しかしそんなこと言ったら身も蓋もない、笑)。この先もクリスチャンにならないとしても、我々がクワイアでゴスペルを歌い続けて楽しむということは有り得るのだろうか。それは可能なんだろうか。可能だとしたら、それはどういう意味で可能なんだろうか。

この問いの答えを探してみる前に、ちょっと廻り道してみたい。いくつかの似たような問いかけ(だいぶ離れているものから、わりあい似ているものまで)について考えてから、本題へ入ってみようと思う。それはつまり・・・

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黒人でない者が、ブルースを歌うこと演奏することは可能か。

クリスチャンでない者がキリスト教の教会で挙げる結婚式の意味は何か。

クリスチャンでない者が、キリスト教の信仰に基づく宗教画を鑑賞することは可能か。

クリスチャンでない者が、キリスト教の宗教画を描くことは可能か。

仏教徒でない者が、仏像を鑑賞することは可能か。

仏教徒でない者が、仏像を彫ることは可能か。

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルを音楽鑑賞することは可能か。

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作詞をすることは可能か。

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作曲をすることは可能か。

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黒人でない者が、ブルースを歌うこと演奏することは可能か

黒人でない者がブルースを歌うこと演奏することは、もちろん可能だ。むろん音楽としてのブルースは黒人にこそ見事に表現出来るという面は有り得るだろうが、ブルースを歌うスピリットに、肌の色は関係ない。以前、unplugged のツアーでのクラプトンのライヴを横浜アリーナで観た時、公演終了後の帰路、後ろから「白人ばかりのメンバーでブルース歌うのはヘンだよねぇ。」という声が聞こえてきたが(実際にはベースは黒人のネイザン・イーストだった)、あれは全くアホの世迷い言。ブルースは黒人でなければダメだ、なんてのはナンセンスだ。まぁ今もブルース・ミュージシャンは黒人が圧倒的に多いし、それはおそらくはこれからもそうなのかもしれないし、私個人もバディ・ガイを始めとして黒人ブルース・マンは好きなのが多いんだけど、しかしクラプトンのブルースだってイイし、死んじまったスティーヴィー・レイ・ヴォーンやポール・バターフィールドのブルースだって泣かせる。次元はあまりに違うけど(笑)、私が下手なギターでブルースの真似事して楽しむことにも、何ら問題はありません。真似事だけでなくて、可能なら自分で作ったって構わない(私の場合はその才能がないだけ、哀)。

クリスチャンでない者がキリスト教の教会で挙げる結婚式の意味は何か

クリスチャンでない者がキリスト教の教会で結婚式を挙げることについては、私自身の考えは否定的だ。クリスチャンでない者が、自分達の人生の一大事である結婚を、信仰していない神の前で誓うのは「違う」と思う。それは仏前にしても、神前にしても然り。

クリスチャンでない者が、キリスト教の信仰に基づく宗教画を鑑賞することは可能か

クリスチャンでない者が、キリスト教の信仰に基づく宗教画を鑑賞することは可能だ。クリスチャンであるか否かで、鑑賞の仕方に違いは出るかもしれないし、感動の内容は異なる部分があるだろう。しかし、キリスト教の宗教画が信仰に基づいて描かれたとしても、それは鑑賞する立場によって一つの芸術作品となるわけで、それをクリスチャンでない者が鑑賞することは可能なはずだ(作者の宗教的熱情の表現を含めて)。

クリスチャンでない者が、キリスト教の宗教画を描くことは可能か

クリスチャンでない者が、キリスト教の宗教画を描くことは可能か。これは完全には難しいのではないか。模写や摸倣なら可能だろうが、信仰がない以上、宗教画とはならない(見分けは難しいんだろうが)。もちろん、例えば、単に布教の様子を絵に描く、というようなこと自体は可能だ。

仏教徒でない者が、仏像を鑑賞することは可能か

仏教徒でない者が、仏像を鑑賞することは可能か。これは全く問題ない。作者が信仰心に基づいて彫ったのであっても、その表現の結果としての芸術作品を、仏教徒でない者が鑑賞することは可能だ。ただし、信仰のある人間には相応の鑑賞方法や姿勢が有り得るとは思うが。

仏教徒でない者が、仏像を彫ることは可能か

仏教徒でない者が、仏像を彫ることは可能か。これはどうだろう。クリスチャンでない者がキリスト教の宗教画を描くケースのように難しさはあると思われる。ただ、何か、唯一絶対神を信じるキリスト教と、宗教というより哲学という面も感じられる仏教との間には結構大きな違いがあるような気がしていて、特定の個人ではない「ホトケサマ」の顔を彫るのは、宗教としての仏教への信仰がそれほど強くなくても可能なのかもしれない、とも思う(これが例えばタイのような小乗仏教の世界になるとまた事情が違うかも)。

さぁここから一気に本題に近づきます。

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルを音楽鑑賞することは可能か

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルを音楽鑑賞することは可能か。これは可能だ。クリスチャンとして神を賛美するという信仰心が音楽のかたちで表現されているブラック・ゴスペル。この音楽をクリスチャンでない者が鑑賞し、その表現(芸術)に感動したとしても不思議なことではない。ブラック・ゴスペルでない賛美歌をクリスチャンでない者が聴いて、その美しさに感動することが有り得ることと同列に考えてよい。

ただ、例えばクリスチャンでない私の場合、昔の伝統的なブラック・ゴスペルを聴くのは好きだし、ポール・サイモンの'74年のライヴ・アルバム LIVE RHYMIN' に収められた、ジェシー・ディクソン・シンガーズの Jesus Is The Answer には文字通り心を動かされるし、カーク・フランクリンのコンテンポラリー・ゴスペルも大好きだ、

しかし、もし小坂忠の歌う日本語のゴスペルを聴いたらどうだろう? 小坂忠がクリスチャンでなかった時代の名作 HORO は今も好きなアルバムの一つだけど、今の彼が歌う、日本語で神を賛美する歌を聴いた時、日本語を母語とし、クリスチャンではない私は、若干の「引っ掛かり」を感じてしまうかもしれない、と思うのだが。

でも、それでも少なくともその音楽が全体として私の心を動かすのなら、私はそこでその音楽をストレートに受けとめて(ヴォーカルの声を音楽を構成する楽器の一つのように受けとめて、歌詞を音楽を構成する素材の一つとして受けとめて)、やはり感動する、という可能性は十分にあるのではないか。

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作詞をすることは可能か

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作詞をすることは可能か。これは無理だろう。これは有り得ない。信仰心を偽ってただ単に文字を書く、ということなら別だが。

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作曲をすることは可能か

クリスチャンでない者が、ブラック・ゴスペルの作曲をすることは可能か。これはどうなんだろう。曲を提供すること自体は可能だけれども、そういうことが現実的に有ることなのかどうか、私は知らない。もちろん、例えば、ゴスペルとして作曲されたのではないポップスやリズム・アンド・ブルースのオリジナル曲の歌詞を変えて、アレンジを施して(場合によったらメロディはそのままでも?)ゴスペルとして再生するということは有るハナシだ。カーク・フランクリンの THE NU NATION PROJECT に収められた Gonna Be A Lovely Day はそのパターン。

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さて、どうなんだろう・・・。

クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為は可能なのか?

個人で CD でも聴きながらゴスペルを口ずさんで音楽的に楽しむ、ということは可能だ。その音楽を好みの音楽として受け入れて、一緒に歌ってみる、そんな時に私は必ずしも歌詞の意味を正確に解釈しているわけではない。それはポップスやロックの場合でもそうだ。もちろん、リスナーとして、しばしば歌詞を重視する時はあるけれども。

ゴスペルを聴くのは絵画で言えばキリスト教の宗教画を鑑賞することに当り(クリスチャンでなくても感動は出来る)、ゴスペルを作詞したりゴスペルとして作曲したりすることがキリスト教の宗教画を描くことに当るとしたら(クリスチャンでない者には困難もしくは不可能)、クリスチャンでない者がクワイアの一員としてゴスペルを歌うという行為はどう位置づけられるんだろうか。

強いて言えば、絵画で言うところの模写や摸倣の行為をしつつ、その芸術を楽しむことが可能か、ということに近いのかどうか。自らの声と体全体とで表現する音楽と普通の絵画の世界との間にある、芸術としての特性の違いもあると思うし、そう単純に置き換えられるものでもなさそうだが・・・。

ワークショップの講師(音楽牧師)の説明では、旋律がブルースだろうがリズム・アンド・ブルースだろうがロックだろうがヒップホップだろうがポップス調だろうが、その歌詞が神を賛美するなら、それはゴスペルだってことだった。

例えば今年のワークショップで経験した7曲の中では、少なくとも鑑賞する音楽としては、カーク・フランクリンの Gonna Be A Lovely Day が好きだし、もう一つ挙げるのなら、こちらはオリジナルからゴスペルなのかもしれないが、ブラック系のポップス調のメロディを感じさせる I Can Be Glad という曲が好みだ。Oh Happy Day もわりと好きだな。

それに対して、私にいかにもゴスペルという印象を持たせる曲(本当はそういうことでもないのかもしれないが)は、歌詞に神を賛美するフレーズの繰り返しが多く、しかも音階が上がっていく、もしくは高い音階がキープされるというパターンが多い。で、これが、歌っているとハマルんだ。気持ちが盛り上がるというか、昂揚感がある。おまけにこれを(自然と)体を動かしながら歌っていると(大勢で歌っていると余計に?)、何か体全体で昂揚感を感じるものがあって気持ちがいい。

どうも歌詞にも原因があるのかもしれない。クリスチャンではないが、クリスチャンが神を賛美する歌なのだとその歌詞の意味を理解しながら歌っていると、少なくともその間、クリスチャンにとっての唯一絶対的な存在への服従(これは決して信仰していない者として否定的に表現しているのではない、つまり、「帰依」とはそういうことなのだと思うのだ)を、クリスチャンではない者として疑似体験していることになる。そんな面があるような気もする。そして実際に精神的な解放感は感じるし、音楽体験としても確かな心地良さがある。単純に言えば、少なくとも一定の持続する時間の間、何かストレスのようなものを本当に発散出来ていて、気持ちがいいのだ。つまり、そういう気がする、というのではなくて、正真正銘、気持ちがいい。したがって、疑似体験の面を持ちながら、しかしその昂揚感や解放感はニセモノではない。それは実際に解放感を味わえるという意味で、リアルな音楽体験だ。

ところで、我々が参加したワークショップはキリスト教の教会で行われたものだが、この数年の日本ではブラック・ゴスペルが広く流行していて、いわゆるカルチャーセンターの類でもゴスペルの教室は開かれている。そもそも日本におけるクリスチャン人口の比率は極めて小さいのだから、そんなゴスペル教室の参加者にはクリスチャンは少ないのではないか。そして、そこはキリスト教の礼拝堂ではないし、ステージに十字架もない。どんなんだろう。カルチャーセンターのゴスペル教室(やその発表会)だったら、今回我々が感じた「引っ掛かり」のようなものは感じないのだろうか。そうだとすると、そのカルチャーセンターのゴスペル教室で歌われるゴスペルと、教会で歌われるゴスペルの違いをどう考えたらいいのだろうか。クリスチャンでない者の立場からすれば、例えば、前者ではほとんどの参加者と共に、神を賛美するゴスペルの昂揚感を疑似体験することになる、と言えるかもしれないし、後者の場合は大半の参加者がクリスチャンとして(実際我々が参加したワークショップではそうだった)神を賛美するゴスペルを歌うことの昂揚感を体験している中で、少数のクリスチャンでない者としてそれを疑似体験している、しかしその音楽体験は十分にリアリティがある・・・。

私とパートナーはクリスチャンではない。今後もクリスチャンになるということは想像出来ない。この先もクリスチャンにならないとして、我々がクワイアでゴスペルを歌い続けて楽しむということは可能だろうか。可能だとしたら、それはどういう意味で可能だろうか。教会のクワイアでゴスペルを歌うということも、一つの音楽体験として続けていけるのだろうか。

この問いの答えは簡単ではない。しかし、とりあえず性急に結論を出すのはやめよう。というか、強引に結論を出すなんて、論理だの理屈だのが好きな自分には無理なハナシなんだから。どれだけ時間がかかることか、あるいはわりと早いうちに割り切る(?)ことになるのか、それはわからないけれども・・・。まぁもう少し様子見しようか。・・・いやはや、頑張って思考を重ねてみたんだけどなぁ(笑)。

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上に転載したところまでが、18年前、2002年の5月12日付の日記。その後、筆者は妻と共に、少なくとも同年のクリスマス・シーズンと翌2003年の上期、隣り街にある同じキリスト教会が主催するブラック・ゴスペル・ワークショップに参加し続けた。その後も 1回程度参加したかもしれないが、なぜかよく記憶していない。

記憶が途切れていることの理由の過半もしくは大半は、同年から翌2004年もしくは2004年度にかけての時期が、自分の人生の中で「激動の」あるいは「荒々しい」といった形容が相応しい、かつ既に始まっていた人生の Hard Times("Hard Times" と言えば Ray Charles, そして Eric Clapton によるカヴァーも素晴らしい、更に全く別の曲である Boz Scaggs の "Hard Times" も沁みるなぁ、とこれは完全に純粋たる MUSIC への「脱線」話題!!) ... 話を戻してその Hard Times, つまり自分の人生における「極めて厳しい時代」、「極めて辛い時期」が当初の精神的な意味合いだけでなく身体的な側面にまで侵蝕していった、そんな時期に移行していく時に当たっていたからだと思う、それは要するに、数年後の「過労死」寸前の時期にまで繋がり、更にその「人生のポケット」みたいなものはその先まで続くんだけれども、そんなふうに「信仰」では全然なくて(笑) Hard Times の「進行」が加速化していってしまう、そういう時期だったからだと思っている。なんだ、この一段落分、過半は別の機会の note 投稿でまた書くかもしれない「脱線」話題だった(爆)(自爆テロならぬ自分で爆笑の爆)。 

ブラック・ゴスペルの話題に話を戻すと、2002年5月12日時点の日記で「頑張って思考を重ねてみたんだけどなぁ(笑)」と書いていたこの件、翌2003年2月の日記でも再び取り上げていたことに、昨日、2020年11月18日、本投稿の「前説」を投稿する際に気づいた。それは更に思考を深めたというほどのものではなかったけれど、それについても、もしかしたらまた明日以降、note 投稿するかもしれない。

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* 昨日と今日の note 投稿に際して転載した昔々、ジュラ紀の太古の昔の日記は、冒頭で書いた通り、筆者のホームページに掲載してきたもの(近年全く更新していないホームページだが、今もネット上に置いている)。

ただし、同ホームページは 2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化けする(威張ることじゃないけど、まぁ威張ってはいないけれど、いつも繰り返しこれ書いてるんだけど、でも初めての人には「初めて」なわけで、だけど「既視」の人にはしつこいね、笑)。 

ところで「既視」は「既視」単体で使われることはあまりなく、普通は「既視感」という表現の中で用いられる、そして「既視感」と言えばデジャヴ、Déjà Vu と言えば CSNY ... あ、日記へのリンクは CSNY "Déjà Vu" の下に付します。

もちろん、この曲は、ブラック・ゴスペルとは全く関係がないけれど、「脱線」カオスして辿り着いてしまった(笑)。

というわけで、

リンク先のホームページ上の日記は、上記の通りスマホでは OS ヴァージョン次第で文字化けするかもだけれど、

1) 昨日の note 投稿テキストに転載した 2002年5月11日付の日記

2) 今日の note 投稿テキストに転載した 2002年5月12日付の日記

ここから先はしばらく Gospel 関連 'bonus tracks' 〜 まずは昨日も紹介した "Jesus is the Answer" (Jessy Dixon Singers)

ここからの 3曲は昨日の note 投稿の中でも紹介したもの。添えた文章もそのまま同じものを置く。

筆者はロック、ブルーズ、R&B, ソウル、ゴスペル、ジャズ、クラシック、中米の音楽、南米の音楽、フランスの音楽、アフリカの音楽、アラブの音楽、ペルシャの音楽、インドの音楽、韓国の音楽 ... 要するにジャンルにも国にも民族にも兎にも角にも色んなものに拘らず音楽を聴き、音楽を愛する者だが、昔よく使われた言葉で言うと「洋楽」を本格的に聴くようになったその初期からずっと、ポール・サイモンの音楽の「大」の付く愛好者。

1974年3月にリリースされた "Paul Simon in Concert: Live Rhymin'" も、その LP を当時速攻で買った。中1の終わり頃、春休みの時期ぐらいだったんだと思うが、当時の小遣いではキツイし、自分で買ったのか、実際には 3歳年上の兄貴が買ったのか、そこまで厳密には記憶していないのだが。

で、このライヴ・アルバムに 1曲、Paul Simon 抜き、Jessy Dixon Singers だけで歌っている曲が収録されていて(B面の 3曲目)、それが以下にリンクを貼る "Jesus is the Answer",

騙されたと思って(笑)聴いていただけると必ずや分かっていただけるものと Jesus や「神」に祈りたいくらいに(あ、筆者は信仰してないのだった、笑)期待するが、兎に角、ヴォーカルがパワフル。素晴らしく、美しく、パワフル。

当時13歳の時に初めてこれを聴いた筆者は、率直に言って、仏音だ、違う、ぶっ飛んだ(ぶっとんだとタイプしてみてほしい、「仏音だ」という候補が出るはず、しかしこれは仏教の歌ではない、笑)。

因みに、このアルバム、LP の B面では、"Jesus is the Answer" と最後の Paul Simon 一人の弾き語りによる "America" 以外の、"Mother and Child Reunion", "The Sound of Silence", "Bridge Over Troubled Water", "Loves Me Like a Rock" の 4曲は、Jessy Dixon Singers が Paul Simon と共にステージに立って、一緒に歌っている。これがまた、素晴らしい。素晴らしいの一言。聴いたことのない方は、機会があったら、是非とも聴いてみていただきたい。

では、以下は、アルバム・ジャケの Paul Simon の姿があるものの、そのオーディオの中身は Paul Simon 抜き、Jessy Dixon Singers のみで歌う "Jesus is the Answer" ♫


Gospel 関連 'bonus track' 2) ブラック・ゴスペル・ワークショップで最初に歌った曲 〜 "Oh Happy Day"

先の "Jesus is the Answer" (Jessy Dixon Singers) 同様、昨日の note 投稿でも紹介したもので(と言ってもこの歌を知らない人はあまりいないだろうけれども)、この下の筆者の文章も昨日と同じ。

(1点だけ加えると、この歌と次の 3) の歌は、2001年に初めて開催され我々が参加したワークショップだけでなく、翌2002年のワークショップでも、引き続きワークショップ中に結成したクワイアのレパートリーに入ったもの。一つには、参加者からの人気が高い曲だったからだと思う。)

これはまぁ、おそらく世界で一番有名な、少なくとも日本で一番有名なゴスペルでしょう。ゴスペルと言えばこれ、定番中の定番。

"Oh Happy Day" は元々は 18世紀に作られた賛美歌 Hymn で、それがゴスペル化 Gospelize されて、1967年に The Edwin Hawkins Singers がレコーディング、その後、1969年になって欧米諸国を中心に大ヒットし、ゴスペルのスタンダードといえばこれ、という地位を獲得するようになったもの。

以下のヴィデオは、ウーピー・ゴールドバーグ Whoopi Goldberg 主演の映画「天使にラブ・ソングを2」(原題: Sister Act 2: Back in the Habit, 1993年)から、少女時代のローリン・ヒル Lauryn Hill も一緒に歌っている "Oh Happy Day" ♫


Gospel 関連 'bonus track' 3) ブラック・ゴスペル・ワークショップで歌った中で一番ノレた曲 〜 "Gonna Be a Lovely Day" (Kirk Franklin, originally Bill Withers' "Lovely Day")

2) の "Oh Happy Day" と この "Gonna Be a Lovely Day" の 2曲は、当時何回か参加したブラック・ゴスペル・ワークショップで歌った曲の中で、(無神論者の筆者ながら)もっとも、もしくは比較的というべきか、とにかく「引っ掛かり」をさして感じることなく歌えた 2曲。

この曲はオリジナルはビル・ウィザース Bill Withers の大ヒット曲 "Lovely Day", それをコンテンポラリー・ゴスペルの雄 カーク・フランクリン Kirk Flankrin がリメイクしたゴスペル曲。彼が 1998年にリリースした 5枚目のアルバム "The Nu Nation Project" (メアリーJ・ブライジ Mary J. Blige や U2 のボノ Bono といった大物たちをゲストに迎えているが、そんなゲストの有無に関わりなく傑作) に収録されているもの。

この機会にそのアルバムをちょっとだけ紹介してしまうと、ソウルや R&B だけでなく、ラップ等のヒップ・ホップの要素を大胆に取り入れた濃密かつバラエティに富んだサウンドで、ゴスペルと言えば映画「天使にラブソングを」辺りのイメージがほとんどという人(筆者も以前はそうだった)の度肝を抜くような中身。ゴスペルを知ってる人にも知らない人にも、「聴いて損はない」と太鼓判を押してお薦めしたい傑作。筆者の場合は、眼から鱗が、耳から鰓(エラ)が落ちた(笑)。

と色々書いてるが、筆者は実は、2001年に本投稿の中で書いている「ブラック・ゴスペル・ワークショップ」に初めて参加した時、カーク・フランクリンの存在と彼の音楽をこれまた初めて知った。

で、初めて聴いたカーク・フランクリンの曲がこれ。何故かと言うと、これがそのブラック・ゴスペル・ワークショップの練習曲に含まれていたから(あまりにカッコイイ曲だったので、アルバム "The Nu Nation Project" も当時直ぐにアマゾンに注文して手に入れた)。

この歌をクワイアで練習して、ワークショップの最終日のコンサート(発表会)でもクワイア全員で歌ったこと、それはかなり懐かしい、且つ楽しい思い出。

途中ラップの部分があるが、そこもクワイアのメンバーだった若い女性2人が担当して結構上手くやったことを、今も憶えている。

Jesus とか The Spiritual love とかいった言葉が出てくる歌を「無神論者」、しかも今や「闘争的かつ積極的な無神論者」, Militant Atheist を自称する人間が歌うのはかな〜りオカシイ、可笑しい現象なのだが、しかしこの歌、正直、歌いたくなる気分にさせられる歌ではある。

まぁしかし、筆者の場合は少なくとも、歌っていても、歌い終わった後も、「無神論者」のままでいられるんだけれども。その辺のことについては、本投稿の次の投稿、明日あたり投稿予定の「クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇」で、少しは表現できるかもしれない .. かな?.. と昨日投稿した、本投稿の「前説」の中のこの箇所で書いていたのだが、さて(笑)。

では今日も試しに歌ってみるかもしれないので、以下、歌詞を。筆者にとっては、基本的に「歌う」ための「詞」。

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*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

Gospel 関連 'bonus track' 4) これは当時歌詞の和訳までした、はまった、しかしおそらく今は当時と比べてかなり歌いにくいと思う、その歌詞のせいで 〜 "My Life Is in Your Hands" (Kirk Franklin)

3) と同じく、コンテンポラリー・ゴスペルの雄、カーク・フランクリンによるもの。彼の 4作目のアルバム、1997年リリースの "God's Property" に収録されている曲。

これも当時、妻と一緒に参加していた隣り街のキリスト教会で開催されたブラック・ゴスペル・ワークショップにおいて歌を練習し、クワイアによるコンサート(発表会)で歌った曲の一つ。

筆者は同時期ワケあってワークショップ主催者とは関係なく筆者個人の「趣味」範囲でこの歌の歌詞について和訳もし(その和訳歌詞をホームページに載せていたら教会の方の目に留まり、印刷されて他のワークショップ参加者たちに配られたりもした)、歌自体も(説明を入れておくと、つまりこの歌の綺麗なメロディと、信仰者でない筆者が歌のオリジナルのメッセージを自分用に解釈しアレンジして自分の手による和訳歌詞とは別に心の中で「人生への向き合い方」風にもっと「超意訳」して捉えていた歌詞の内容を併せて .. 長いな釈明、笑)気に入っていたもの。

曲のタイトルが "My Life Is in Your Hands" で、アルバムのタイトルが "God's Property", OMG, Oh My Great power(s) that might exist in this universe!

 .. その Great power のことを、とりわけユダヤ教、キリスト教、イスラム教といったアブラハムの宗教の教えでは、「神」なるもの、God, Allah, つまり「唯一絶対の神」なるものなのだ、ということにしている。その存在に何の科学的証拠もないにもかかわらず。まぁ「宗教」というのはそういうものだと言えばそれまで、だけれども。物理的、科学的な意味においては、「神」なるものの「法」では全くないが、宇宙にはすなわち、法則と呼んでいいものがある「ようで」、それを人類は何千年もかけて追いかけてきた。そうした法則を律する力が宇宙に存在するとしたら、それは物理的あるいは科学的な意味における力であって、人間をコントロールするために人間が編み出した「宗教」と呼ばれる思想やその概念の中における「神」なるものは、それとは全く別の代物である。

さて、My Life Is in Your Hands ということは、自分の人生、その生と死が、Your Hands に委ねられている、You に委ねられているってことになる。これはある意味、信仰するその対象に対しての絶対的服従を宣言しているものともとれる。まぁ宗教とか信仰とか帰依とか、そういうものは原理的にこういうことになったりするわけだけれども。

当時は上の括弧書きで書いたような意味合いでアレンジをして解釈したうえで歌っていて、その限りにおいて好きな歌だった。今もメロディ自体は美しいと思うが、さて今現在、前のような心持ちをもってクワイアでこれを歌う気分になれるかというと、控えめに言っても、ちょっと「違う」なという感じはする。

17, 8年ほどの前の「人生のポケット」初期(その間もずっと、それ以前や今現在と同じく信仰心なるものは持たなかったけれども、その時期は何処か何かに縋りたいような「感じ」の気分が時折り湧いてくる、そんな精神状態の時期だった .. あ、「すがる」ってこういう漢字なんだ、「よがる」とは違うよね、おお、blaspehmy!! .. 笑)にあったような心の状態でこの歌に向き合うことは、もう有り得ないから。


Gospel 関連 'bonus track' 5) これは当時でもかなり歌いにくかった曲の一つ、おそらくはその「神への賛歌」歌詞と宗教的「昂揚感」の度合いがかなり高いが為に 〜 "He Reigns Forever" (The Brooklyn Tabernacle Choir)

この歌は、本投稿「本篇」としてテキスト内に転載した2002年5月12日付の筆者の日記の中にある「それに対して、私にいかにもゴスペルという印象を持たせる曲(本当はそういうことでもないのかもしれないが)は、歌詞に神を賛美するフレーズの繰り返しが多く、しかも音階が上がっていく、もしくは高い音階がキープされるというパターンが多い。で、これが、歌っているとハマルんだ。気持ちが盛り上がるというか、昂揚感がある。おまけにこれを(自然と)体を動かしながら歌っていると(大勢で歌っていると余計に?)、何か体全体で昂揚感を感じるものがあって気持ちがいい」に当て嵌まるような、そんな類の典型的な曲。

日記の中で「気持ちがいい」とか書いているが、この曲ほどのレベルの、つまり、「神への賛歌」としての歌詞が延々と続き、かつ「音階が上がっていく、もしくは高い音階がキープされるというパターン」の度合い「レベル」が非常に高い曲になると、正直、当時でも歌いにくいところがあった。

ここまで宗教的「昂揚感」が高い感じで(しかも周囲は大多数が「本物」のクリスチャン、こっちは「擬似体験」派)、その極まった昂揚感のまま突き進んでいく歌となると、ノンクリスチャン、無神論者の自分としては、要するに思わず「引いてしまう」という。

筆者のように、ノンクリスチャンの人がこの歌を聴けば、あるいはこの歌を歌えば、どうでしょう、少なくない数の人々が筆者と似たような反応をするような気がする。

ところで、以下に音源へのリンクを貼るその YouTube 上のクリップで歌っているのは The Brooklyn Tabernacle Choir という名のクワイアなんだけど、Brooklyn Tabernacle というのは、New York City にある Evangelical つまり福音派のキリスト教会だと思う。

ということは、この「福音派」キリスト教会って、やっぱ他のアメリカ合州国内の同類「福音派」キリスト教会(Evangelical Christians は何とアメリカでは人口の 1/4 ほど、つまり 8,000万人もの信者を数える)と同様、その点、アタマどうかしてませんかね?レベルの、イスラエル・パレスチナ問題におけるイスラエル「一辺倒」支持派なのだろうか。仮にそうだとしたらの話だけど、だとしたら、あなた達、明らかにそれは間違ってるよ。

教会専属のクワイア、「あたり前田のクラッカー」で、もちろん歌は上手。


Gospel 関連 'bonus track' 6) ゴスペル・ワークショップで歌った曲の中に "Emmanuel" というタイトルの歌があった、これだったような、でも違うような、はっきり覚えていない 〜 "Emmanuel" (Norman Hutchins)



Gospel 関連 'bonus track' 7) この "Emmanuel" は 6) の "Emmanuel" とはまた別物、これはブラック・ゴスペル Black Gospel でなくて賛美歌 Hymn 〜 "O Come, O Come Emmanuel" (Traditional Choir)

この曲は、当時のゴスペル・ワークショップで歌ったわけではない。"Emmanuel" で YouTube 上でサーチしたら、これが出てきた。

これは賛美歌 Hymn, 筆者が今から37年前、バックパックひとつ担いで海外「放浪」もどきの旅をしていて、その時に行ったパレスチナのベツレヘム、そこのキリスト教会を訪れて、その教会内で行なわれていたミサで流れていた音楽、あるいは信徒が歌っていた曲を思い出させる。記憶の中で何か変わってしまっていたら、あるいはヨーロッパ旅行中に入ったキリスト教会の中で流れていた音楽でもいいけれど。


'blasphemy track' 〜 "O Come, O Come Emmanuel" の文字を眺めているうちに、"Oh, I'm gonna come! I'm coming!", she moved faster and faster .. Oh, sorry for blasphemy, LOL, btw, her name is Emmanuelle!!


だから、これは、ジョークだってば。こんなことで斬首するのは止めてくれ。あ、同じアブラハムの宗教でもちょっと「違う」かな。でも基本は同じ、今現在の世界を生きている人の人権よりも、何世紀も前に死んでいる預言者や「神」なるものの宗教上の尊厳を優先してしまうことが(少なくとも)「時に」ある、それが宗教、あるいは宗教というものの一側面、一断面。

懐かしの1974年フランス映画 "Emmanuelle", 邦題「エマニエル夫人」、主演女優は惜しくも今は亡きオランダ人モデル・女優 Sylvia Kristel, ほんと、あの人は美しかった。

中学2, 3年の時に仲の良かったワルガキ同士7, 8人で集まって、何回か、同級生の親が持っていた8ミリ映写機と日米それぞれのノーカット・ブルーフィルムを持ち寄って上映会やって観てたくらいだから(都合よく仲間の家で裏地にお蔵を持つ家があってそこで観たりしてたのだが、その「秘密」上映会が「官憲」!! に見つかっていたなら当然のように補導、退学には流石にならんとしても一定期間の停学処分くらったのは間違いない、でも見つからなかった、笑)、少年時代の筆者には "Emmanuelle" は文字通りソフトコアだったけれど、でも大学入試「共通一次試験」初年度世代の1979年1月、その「共通一次試験」最終日の2日目試験終了後に、試験会場からそう離れてなかった映画館でリヴァイヴァル上映してた "Emmanuelle" を、これまた高校時代のワルガキ仲間何人かで観に行ったのは、懐かしき思い出。

甘美でアーティスティックな感じの映像という印象だけど、中身は一応はアレのシーンが満載、しかし「ポルノ」指定の映画ではなかったと思う。ただ、県によっては条例で高校生以下ぐらいの鑑賞を制限していたかもしれない。筆者は当時、生まれ育った静岡県在住だったが、同県の条例がどうだったかなんて憶えてない。上映してた映画館に学生服着たまま何の咎めもなく入って観たことは、よく記憶している。

ああ、とにかく懐かしい。筆者にはマリリン・モンロー・ノーリターン ♫ (by 野坂昭如)というよりは、麗しきオランダ人女優、シルビア・クリステル・ノーリターン ♫ Come back, Sylvia "Emmanuelle" Kristel!!



Emmanuel .. と言えば ... 現在のフランス大統領の名は Emmanuel Macron

「脱線」トピック。

マクロンは別に好きな政治家では全くないが、「テロや暴力行為は決して許されないが、表現の自由は宗教の信者にとっての冒涜をも含むもの、それでもその権利は擁護されなければならない」という考え方については支持。ただ、残念ながら今の世界において、そして今やフランスにおいてさえ、それが「普遍的な」説得力を持ち得ていないのが「現実」。マクロンの考え部分はじめ、昨日見た日本のフランス文化・宗教学者による署名記事のテキストを参照した。このことについてはまた、いずれ、note 投稿において書きたいと思っているが、今日のこの note 投稿の中では、

一言書いておくと、

世界のムスリム、つまりイスラームの信者のうちの多くが例の件、7世紀に亡くなっている過去の人である預言者、そして「神」なるもの、宗教等の風刺・戯画等に関わる事柄、そしてマクロンの発言「イスラームは世界において危機にある宗教」(といった趣旨、おそらくはマクロンもそう思っているものと想像するが、危機にあるのはもちろんイスラームだけでなく、キリスト教を含む宗教なるものそれ自体も危機にある、ただし、上記関連ではイスラームが該当する)などによってフランスに対して怒り、怒りというより「激昂」し、フランス製品「ボイコット」を声高に訴えたりしているが、しかし、彼らのうちのどれだけが、例えば中華人民共和国におけるウイグル族ムスリムに対する極めて非人道的な弾圧(まぁあの国は仏教徒のチベット族に対しても人権弾圧するし、宗教など関係なく「一国二制度」だったはずの香港の民主化運動の人々に対しても極めて抑圧的なのだが、そういうことを言い出すと、もちろん我らが祖国「日本」も、難民受け入れの相変わらずの桁違いの少なさ、いわゆる「技能実習」の多くの人たちの過酷な労働実態、「不法滞在」外国人の常識外れの長期収容など深刻な人権問題は盛り沢山) ... に対して、つまり、同じイスラームの信者であるウイグル族という、現代をいま「生きている」人々に対する中国の深刻な人権弾圧にどれだけ怒り、世界のどれだけのムスリムが、例えば中国製品「ボイコット」と、声高に叫んでいるだろうか。

以上、「脱線」トピック(ただ、キリスト教もアブラハムの宗教、イスラームもアブラハムの宗教、そしてフランスの問題の中心はイスラームそのものというのではないけれど、でもまぁ些か「牽強付会」的な強引な繋がりを求めれば、そんなところか、ジョーク混じりで!!)。


Gospel 関連 'bonus track' 8) これは「ブラック・ゴスペル」のイメージとはやや距離があるけれど、これも当時、ワークショップで歌った 〜 "Make Us One" (The Brooklyn Tabernacle Choir)

5) のところでも書いたけれど、この Brooklyn Tabernacle というのは、New York City にある Evangelical, つまり福音派のキリスト教会のようだ。ということは、この教会も御多分に洩れず、イスラエル「一辺倒」支持派なのかな。仮にそうだとしたらの話だけど、だとしたら、あなた達、明らかにそれは間違ってるよ。

綺麗なハーモニーを聴かせるクワイア。教会専属のクワイアは当然、ほぼ皆、「あたり前田のクラッカー」的に、歌が上手。


Gospel 関連 'bonus track' 9) これは普通、「黒人霊歌」って言う? 〜 "Swing Low, Sweet Chariot" (Etta James, Eric Clapton)

"Swing Low, Sweet Chariot" は、African-American spiritual song, いわゆる「黒人霊歌」。「黒人霊歌」は「ブラック・ゴスペル」よりも歴史が古く、より白人のキリスト教宗教音楽との融合による要素が濃い(ブラック・ゴスペルはよりアフロ・アメリカン独自性が強い)と言えるかもしれないが、筆者は実はその辺、詳しくなくて、ちょっと勉強し直さないと正確に書けない。



Gospel 関連 'bonus track' 10) Curtis Mayfield 作, The Impressions の "People Get Ready" は歌詞からして、もちろん「ゴスペル」 〜 "People Get Ready" (The Impressions, Jeff Beck with Rod Stewart, Jeff Beck with Joss Stone)

Black Gospel? いや African-American spiritual 的? .. まぁジャンルのことはいいや、ここでは。


上のヴィデオでも下のヴィデオでも、Jeff Beck, Rod Stewart, Joss Stone の見事なパフォーマンスだけでなく、Jeff Beck のこの時のバンド・メンバー、Tal Wilkenfeld on bass, Vinnie Colaiuta on drums, Jason Rebello on keyboards のそれぞれ素晴らしい演奏テク、流麗なパフォーマンスを楽しめる。下のヴィデオが特にそうかな。


Gospel 関連 'bonus track' 11) 最後は再びコンテンポラリー・ゴスペルの雄、カーク・フランクリン Kirk Franklin 〜 "Lean On Me" (Kirk Franklin & the Family with Bono, Mary J. Blige, Crystal Lewis, etc.)

Kirk Franklin の 1998年リリース、彼の 5作目のアルバム、本 note 投稿 'bonus track' 3) の "Gonna Be a Lovely Day" (オリジナルはビル・ウィザース Bill Withers の "Lovely Day") 収録のアルバム "The Nu Nation Project" の中の曲。

ビル・ウィザースの有名なヒット曲に同名タイトルの歌があるが、あの歌ももちろん素晴らしいけれど、あの歌とは違う "Lean On Me" で、ヴォーカルには Kirk Franklin & the Family のほか、U2 の Bono, そして Mary J. Blige, Crystal Lewis などが参加している。

とりわけ、Crystal Lewis と、Kirk Franklin & the Family の歌手 Tamela Mann の2人のヴォーカルは、聴いてて「ぶっ飛ぶ」くらいのパワフルさ。見事。

このヴィデオの中で、彼女らがそれぞれ歌っている様子も「拝む」ことができる。一見、一聴の価値は十二分に有り。

そうだ、そうだ、筆者は妻子(当時、息子は小3だった)と共に 2001年の夏に大阪でカーク・フランクリンのライヴを生観、生聴きしているのだった。そりゃもう、もちろん、めっちゃくちゃ良くて、しかも楽しめるライヴだった。

Facebook を漁ったら、去年2019年の12月に自分の Facebook に投稿した時のものが出てきて、我が一家は無神論者だけどゴスペル歌ったりしてさ、でも歌詞はさ、なんて書いてるので、それをそのまま、ヴィデオの下に貼り付け。

Vocals of Kirk Franklin & the Family, and particularly Mary J. Blige and Crystal Lewis and Tamela Mann, are amazing.

My wife and I are Atheists, but we've joined the Gospel music workshop at a Christian church, we're atheists, so some or most of the lyrics for Gospel songs have nothing to do with us, but we love Gospel "music" itself, one of origins of blues, rock 'n' roll, etc. we love. We have watched Kirk Franklin live in Japan. It was in Osaka in summer 2001. We enjoyed the music of Kirk and his group, with then-8 year old son of ours. (*At that time, without Mary J. Blige, Crystal Lewis, though, lol)

Lean On Me ー Kirk Franklin featuring Mary J. Blige, The Family, Crystal Lewis, etc., from Kirk Franklin 1998 album "The Nu Nation Project" 

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

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* 2001年8月にカーク・フランクリンのライヴを生観・生聴きした時の日記。ただし、筆者のホームページ、2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイト、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化けしてしまうホームページ上に掲載(いい加減「改良」すりゃいいんだろうけど、たぶん今後もこのまま)。 


付録: ブラック・ゴスペル・ワークショップに初めて参加した年2001年、その年の11月に、同じキリスト教会で、我が「無神論」一家3人で ブルーズ を歌ったのさ、の巻



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