見出し画像

愉悦の読書2024


ポール・オースター『ムーン・パレス』柴田元幸訳、新潮文庫、2011年19刷

愉悦の読書2024

まるごと通読する本は、ここ三年ほど、だいたい週一冊少々のペースであまり変わらない。部分的に読んで投げ出す本はその倍くらいはあるだろう。やはりほとんど古本である。そんなことで、ここに掲げた12冊も、この本、今頃読んだのか、とあきれられそうなものばかり。本当に面白いものは時代に関係ないんです、と一応言い訳をしておこう。

新刊については、いい本をたくさん頂戴して読ませてもらったが、なかでは『楽しみと日々』と『砂のように眠る』が印象に残る。再読は『遠いアメリカ』、こんな話だったのね、と再び引き込まれた。

村上春樹『羊をめぐる冒険』上・下、講談社文庫、昭和63年
https://note.com/daily_sumus/n/nb7667d50e207

チャンドラー『ロング・グッドバイ』村上春樹訳、早川書房、2007年
https://note.com/daily_sumus/n/nfbf6638a396e

ブローティガン『愛のゆくえ』青木日出夫訳、ハヤカワ epi 文庫、2002年
https://note.com/daily_sumus/n/n10d074b05084

ラドヴァン・イヴシック『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』エディション・イレーヌ、2016年
https://note.com/daily_sumus/n/n2c2789d0e5dd

ジュゼッペ・トルナトーレ『鑑定士と顔のない依頼人』柱本元彦訳、人文書院、2013年
https://note.com/daily_sumus/n/nc688b5e2e64f

アベ・プレボオ『マノン・レスコオ』広津和郎訳、新潮社、大正8年
https://note.com/daily_sumus/n/n66b4dbbc9e60

常盤新平『遠いアメリカ』講談社、1987年2刷
https://note.com/daily_sumus/n/nfcb3c669bc3c

高遠弘美『楽しみと日々ーー壺中天書架記』法政大学出版局、2024年
https://note.com/daily_sumus/n/ne14737571ecb

新説八十日間世界一周』前篇・後篇、川島忠之助訳、明治11年・13年
https://note.com/daily_sumus/n/n8439c57df537

堀辰雄 妻への手紙』堀多恵子編、新潮文庫、昭和40年
https://note.com/daily_sumus/n/ndf6d057bfc23

関川夏央『砂のように眠る 私説昭和史1』中公文庫、2024年
https://note.com/daily_sumus/n/nad66b92b50ab

ポール・オースター『ムーン・パレス』柴田元幸訳、新潮文庫、2011年19刷

読み終わったばかりの『ムーン・パレス』も追加しておきたい。主人公はマーコ・スタンリー・フォッグという名前である。そしてある時からフィリアスと呼ばれるようになる。

 シカゴに移ってまもなく、伯父さんに連れられて『八十日間世界一周』の映画を観にいった。いうまでもなく、この話の主人公はフォッグという名である。フィリアス・フォッグ。それからというもの、ビクター伯父さんは僕をフィリアスと呼ぶようになった。あの不思議な時間ーー伯父さんの言を借りるなら「我々がスクリーンの我我と向きあったとき」ーーのひそかな記念というわけだ。

p16

ポール・オースターはきっとこの偶然を喜ぶに違いないが、上記のように『新説八十日間世界一周』を少し前に読んだところである。世界一周はしないものの『ムーン・パレス』も旅行小説、ロード・ノヴェルの一種と言っていいように思う。饒舌を少々持て余すところもあったし、ラストはいまひとつ腑に落ちないにしても、力技で読ませる感じだ。

伯父さんが急死して大量の本がフィリアスの元に残された。まったく気力を失ったフィリアスは(『八十日間世界一周』のフィリアスはどんなときにも決して冷静さを失わないジェントルマンとして描かれている)それらの本を読む片っ端から古本屋へ売り払う。この古本屋についてのシーンは悲惨だ。その書店の名前がまたチャンドラー書店となっているから、苦笑してしまう。

僕は危機に瀕した本たちを二袋のショッピング・バッグに詰め込み、次に大学へ行くついでに古本屋に持っていった。ブロードウェイをはさんでキャンパスの真向かいにあった、チャンドラー書店という店である。狭苦しい、ごみごみした店だったが、商売は結構繁盛していた。一九六七年から六九年にかけて、僕は数十回にわたってその古本屋を訪れることになった。そうやって僕は自分の遺産を少しずつ手放していったのだ。

p46

僕がビクター伯父さんの蔵書を持ってくるたびに、チャンドラーはいつも同じ芝居をやり出した。嫌悪感もあらわに指先で本をつまみ、背表紙をじろじろ眺めて、書き込みやしみはないかとページを繰る。どう見てもそれは、汚物の山を扱う人間の態度だった。これが彼のやり口だった。品物をおとしめることによって、心置きなく底なしの安値をつけられるのだ。三十年の修練を積んだだけあって、演技も堂に入ったものだった。ぶつぶつ独り言を呟く、顔をしかめる、舌をちっと鳴らす、悲しげに首を横に振る。

p46

こっちはつねに、売ろうと必死であり、向こうはつねに、買っても買わなくても構わないのだ。売れなくたって平気さという態度を装っても無駄だ。事実売れなくなるだけの話である。売れないとすれば、結局は買い叩かれるよりなお悪い。やがて僕は、持っていく本の数が少ないほうが効率がよいことを発見した。一度に十二冊くらい、せいぜい十五冊。そうすると、一冊あたりの平均値がごくわずかながら上昇するのだ。けれども、冊数を少なくすると、売りにいく回数も必然的に増えることになる。そしてその回数は必要最低限に抑えねばならない。取り引きの回数が多くなればなるほど、こっちの立場は弱くなっていくのだ。

p48

これを読むと、NYなんだから他にも古本屋があっただろうと言いたくなる。伯父さんは雑多な本を持っていた。向き不向きも考えてちゃんと仕分けして、向きの古本屋に持ち込まないと、などとページに向かって、いらぬアドヴァイスをするしまつ。どうやらこの古本屋に対する嫌悪感は実体験からきているようだ。「訳者あとがき」にこうあった。ムーン・パレスはコロンビア大学のすぐそばに実在した中華料理屋。

 さて、この小説『ムーン・パレス』の著者ポール・オースターもコロンビアの卒業生である。学生だったオースター青年が、マンハッタン西一一二丁目の中華料理店で、エッグスープやサワーポークやチリソースシュリンプやフライドライスによって一度ならず空腹を満たしたことは想像に難くない。あるいはその代金は、この小説の主人公マーコ・フォッグがそうしているように、ムーン・パレスと同じ通りに面した古本屋で、なけなしの蔵書を売って得たものだったかもしれない。

p528

かもしれない、ではなく絶対にそうだったに違いない。

愉悦の読書2023
https://note.com/daily_sumus/n/n6eb36588ef9a

読書愉楽2022
https://sumus2018.exblog.jp/30200143/

いいなと思ったら応援しよう!