「花」の美しさといふ様なものはない
まさにつれづれに白洲正子『器つれづれ』をめくっていますと、小林秀雄の骨董について書かれているところで目が止まりました。「骨董とのつきあい」。
ふ〜む。考えてみますれば、《「花」の美しさ》はない、ということは突き詰めれば《美しさ》という抽象概念はないということでしょうか。一方、《美しい「花」》の《美しい》は小林の中にあるもので「花」にあるものではないでしょう。自分の《美しい》はあっても、他人というか皆に共通の《美しさ》はないのだ、というふうに解釈していいのかどうか。
要するに《美しさ》というようなものはなく、それを美しいと思う自分が美しいと、小林は言いたいのかも知れません。そうだとすると、世阿弥の意図するところとは百八十度違うような気もします。
この後のくだりで白洲は、小林が自慢した絵皿を青山二郎に偽物だと決めつけられて、夜も眠れなくなる話を小林の「真贋」から引いています。上の話と対照してみるとなかなか意味深いものがあります。
ほら、《皿が悪いとは即ち俺が悪い事》と自分でも認めています。美しいと思う自分が美しい、と小林は思っていたことになります。
ひょっとして、それが分かっていた青山二郎はわざと難癖をつけたんじゃないでしょうかね、なんだか、そんなふうにも思えます。
青山の一言に震え上がって夜も眠れないのに、壺中居の一言で目が醒めるなんて。それはそれで、小林・青山の関係がうかがえて面白いとは思いますが、小林は結局自分を愛したいということなのでしょう。もちろん、それはコレクターに対してなら誰にも当てはまる法則のようなものだと私は考えますけれど。