見出し画像

自分が自分であること、自分が自分でしかあり得ないことに心からうんざりしていた


関川夏央『砂のように眠る 私説昭和史1』
中公文庫、2024年11月25日、カバー画=樋口達也、カバーデザイン=石間淳

関川夏央『砂のように眠る 私説昭和史1』読了。1949年新潟県生まれの著者が(いわゆる団塊の世代に属する……著者自らがそう書いている)、自伝的小説とベストセラー解読をそれぞれ六篇ずつ交互に並べて「戦後」という時代をリアルに描こうとした意欲的な作品集である。

ベストセラー読み解きの対象として、無着成恭『やまびこ学校』、石坂洋次郎『青い山脈』他の諸作、安本末子『にあんちゃん』、小田実『何でも見てやろう』、高野悦子『二十歳の原点』、田中角栄『私の履歴書』が取り上げられている。著者はこれらの書物のいずれをも同時代的には読んでおらず、1980年代にあらためてじっくりと目を通したという。そのゆえもあって非常にクールな各著作の紹介、分析がなされており、これらの評論だけでも高度な書評集であろう。

一方、小説は当たり前すぎる。仮に私小説だとしても正直にすぎよう。同年生まれの村上春樹のようなあからさまな「嘘」が感じられない。しかし、それこそが著者の狙いだった。ありふれた自分史と時代を象徴するアイコンとしてのベストセラーを対置させることによって「戦後」という時代を二重写しにあぶり出す。そのためにはどうしても凡庸な(誰にでも身に覚えのある)生活描写が必要だった。

要するにそれは、戦中戦後生まれの多くの日本人に共通するありふれた体験であり体感であるだろう。そのありふれた眼の高さと視野から時代を見直すということがわたしのもくろみだった。

おわりに p313

例えば、書物に関連する部分でも、こういうところに目が止まる。小説「ここでなければどこでも」の主人公は高円寺のアパートを借りている。1973年。主人公は貸本屋の上客だった。

中央線沿線のそのあたりには貸本屋のチェーン店があり、大衆小説から吉本隆明選集や岩波新書までとりまぜて、新刊ものならたいていおいてあった。もっとも吉本隆明選集や大塚久雄の選集などは借り手が少なかった。本の小口を見るとたいてい表紙から十分の一くらいまで薄く手垢がついていて、あとは真っ白だった。わたしも借りるには借りたがやはりそのくちだった。山本周五郎や筒井康隆はどのページにもめくったあとがあった。わたしもそうした。本の定価によって貸し出しの値段は違えてあった。二日間で六十円か八十円、あとは一日増すごとに二十円というのが相場だった。

P211

「ありふれた体験」とはこういうことなのかもしれない。小生も1978から79年にかけて阿佐ヶ谷と高円寺の中間あたりに住んでいたが、貸本屋はまだ健在だった。当時は新刊雑誌を借りる客が多かったように思う。

もう一箇所は評論の「一九六九年に二十歳であること」から。次のようなくだりがある。『二十歳の原点』の高野悦子は1969年6月24日未明、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線天神踏切西方20メートルで貨物列車に飛び込んで自殺した。即死。二十歳六ヵ月余の生涯だった(余計なことながら彼女の自殺現場は小生の現在の住居から自転車で15分ほどのところです。1996年から高架になっています)。

 彼女は必死に読書をした。正確には読書しようとつとめた。
「毎日、新書を一冊よむぐらいに頑張」るつもりだった。おもしろいかどうか、自分の身の丈に合っているかどうかは問わなかった。だから、おおむねはがまんの読書であり、結局太宰治くらいしか愛読書を発見できなかった。本がつまらないのは自分のせいではない、相手が悪い、あるいは読む時機を得ていないからだ、と見切ってしまうことができず、またそのことを笑いながらさとしてくれる友を、彼女は不運にも得なかった。『資本論』も『アデン・アラビア』も、そして『都市の理論』も、誰もが読みかけ、ついに誰もが途中で放り投げている。そのくせ読んだふりをして、爪先立つ議論のコンテストに出場しているだけだと知ったならば、彼女もよほど気分を安んじただろう。

p259

本が「読むもの」ではないと知るためには、やはりある程度までは読まなければならない。しかし読めば読むほど本は読むことから遠くなる。タイトルを読めば、もう読んだことになる(昔の人は外題学問と申しました)、とそのくらいの開き直りが必要である。

著者は高野悦子とも同年生まれである。

 わたしは一九六九年に大学の一年生だった。高野悦子とは同年、昭和二十四年生まれである。が、彼女は一月生まれ、いわゆる早生まれだから学年はひとつ上になる。その頃のわたしはやはり彼女のように、自分が自分であること、自分が自分でしかあり得ないことに心からうんざりしていた。

p247

「戦後」とはどういう時代だったのか? という問いは、結局のところ、自分を見つめ直す旅なのだ。そしてその結末は見えている。結末が見えているからこそ、問いかけたくなるのか。

昭和が去って、すでにひと世代以上の時間が過ぎた。昭和人は中老以上の大群と化しつつあり、間もなく無用の存在となるのだろう。

自著解説 自分をつくった時代を「歴史化」する p339

「無用の存在」となる……どうもそう簡単ではないように思われるが、それはさておいても、団塊の世代あるいはその前後の人間にとっては、自らの道程を振り返るためのまたとない参考書になっている。三部作というので続巻も期待しよう。

いいなと思ったら応援しよう!