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後山處トシテ廣濶タル茄非樹ノ園ナラザルナシ
佛人 シュル、ウエルス氏原著/日本 川島忠之助訳『新説八十日間世界一周 前篇』(明治11年5月31日版権免許)
佛人 ジエル、ヴエルヌ氏原著/日本 川島忠之助訳『新説八十日間世界一周 後篇』(明治13年6月24日出版御届)
ある必要があって川島忠之助(1853-1938)訳『新説八十日間世界一周』(秀選名著複刻全集近代文学館、日本近代文学館、昭和59年)を読んだ。これがなかなか面白く、巻を措くあたわずというくらい。あえて現代語訳ではなく明治の文語訳を選んだのも良かった。原本はとうてい手がでないほど高価であるが、ほるぷの複刻版はまあ普通の値段。
言うまでもなくジュール・ヴェルヌ著『Le Tour du monde en quatre-vingts jours』の翻訳だが、これはわが国最初のフランス文学作品の翻訳だとのこと。著者名表記が前篇と後篇では違っているのもご愛嬌である。1872年、パリの新聞『ル・タン』に連載され、翌73年に単行本として出版された。川島の翻訳は前編が1878年、後編が1880年に刊行されているから、ほとんど時差はないと言ってもいいくらいのスピード翻訳である。
時は後期ビクトリア朝。イギリス人資産家フィリアス・フォッグが執事のジャン・パスパルトゥーを従えて、世界を80日間で一周しようと試みる波瀾万丈の物語である。
当時はトーマス・クック社主催による世界一周ツアーの第1回目が行われている最中であり、ヴェルヌ家の記録によると、ヴェルヌはこれに刺激されて本作を書いたとされる。
フォッグはスコットランド・ヤードの刑事フィックスに銀行詐欺犯と勘違いされて付き纏われ、あわや八十日間という期限に遅れを取りそうになる。潔癖症で博打好きのロンドン人フォッグ、気のいいお調子者で体技に優れるパリっ子パスパルトゥー、そして執念深いスコットランド人のフィックス。なんとも分かりやすいキャラクター設定だ。
お話の方はみなさまご存知と思うので略して、喫茶店関係の一箇所だけ引用したい。スエズ運河(1869年開通)を通ってモカの珈琲園を遠望するという場面。
斯ル折カラ郵便船ハ駛行迅速ナリケレバ十三日ニハ早ヤモカノ邊ヲ経過シタリケル遥ニ此モカヲ望メバ頽廃タル環壁猶其外ヲ繞リ緑々タル棗樹其上ニ散立ス後山處トシテ廣濶タル茄非樹ノ園ナラザルナシ爰ニ於テパスパルツーハ此有名ナル市街ヲ眺ミ歓喜ニ措カズ且團々タル環壁ノ傍ニ當今破壊ノ余タル古塁ノアルアツテ遠ク是ヲ望メバ形チ太タ巨茶碗ノ環アル者ニ類スルヲ見タリ
原文の当該箇所はこちら。
Cependant le paquebot s’avançait rapidement. Le 13, on eut connaissance de Moka, qui apparut dans sa ceinture de murailles ruinées, au-dessus desquelles se détachaient quelques dattiers verdoyants. Au loin, dans les montagnes, se développaient de vastes champs de caféiers. Passepartout fut ravi de contempler cette ville célèbre, et il trouva même qu’avec ses murs circulaires et un fort démantelé qui se dessinait comme une anse, elle ressemblait à une énorme demi-tasse.
Le Tour du monde en quatre-vingts jours
https://fr.wikisource.org/wiki/Le_Tour_du_monde_en_quatre-vingts_jours/Texte_entier
街が巨大なデミタス・カップに似ている《形チ太タ巨茶碗ノ環アル者ニ類スル》というところは、明治時代の日本人にはちょっと理解し難かったかもしれないが、翻訳は概ね正確と言って良いだろう。
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フォッグ一行がモカを通過したのは1872年10月13日。モカというと思い出すのはアルチュール・ランボーのこと。ランボーが詩に見切りをつけ、キプロスからイエメンのアデンへ流れ着いたのが1880年8月頃。アデンのバルデー商会で働きコーヒーをフランスへ輸出する仕事にたずさわった。アデンから家族に宛てた手紙(1885.4.14)にはこう書かれている。
この辺の国々の交易は、ほんの数年前にはなお好調でした。主な取引はモカと呼ばれるコーヒーです。モカがさびれて以来、モカ種のコーヒーはすべて当地から搬出されます。
ランボーがパスパルトゥーとほぼ同じころ(8年ほどの差はありますが)モカの街を眺めたと考えるのはなかなか愉快なことである。