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空襲により山手線西側の街々は壊滅した
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『柳瀬正夢画集』をひょんなことから入手。これは今年になってからいちばん嬉しい出会いです。子供の落書きが数ページありますが、気にしません。綺麗な状態だとそこそこします。ただ、入手が難しいというような本ではありません。
柳瀬正夢の歿後三年目に刊行されました。元版は昭和五年叢文閣発行の『柳瀬正夢画集』です(古書としてはこちらの方がずっと珍しいようです)。そこにまつやまふみおと須山計一の追悼文が付されています。
まつやまふみおは付録の文章「柳瀬正夢の漫画」で柳瀬に影響を与えた画家を二人挙げています。
柳瀬の漫画は一言でいいあらわすならば非常にせん[2文字傍点]動的なものであつた。こういう意味では世界にも類のない程の特徴をもつている。この表現様式は多分にアメリカのエリス(現在でも同国共産党の機関誌デーリー・ワーカーの上で健在である)から影響された。が、彼は一層それを独自なものにつよめた。
彼が最初に影響をうけたのは、そしてそれは彼の漫画の出発の推進力ともなつたのはドイツのグロツス(ナチス政権におわれて現在まだアメリカに亡命中)であつた。
まつやまはグロッス(最近では英名のジョージ・グロスと表記します)には革命的な力が足りなかったため、柳瀬はエリスを取り入れたとしています。須山計一も「柳瀬正夢さんーー三年忌にあたつてーー」でその影響関係に触れています。
最初は第一次対戦後のドイツ表現画家グロッスの影響がつよく、無産者新聞時代の初期にはアメリカの左翼画家マイナー、エリスなどの感化もある。しかし柳瀬は、これらをいつの間にか自分のものとしている。大衆にわかるということをモットーとしていたので後にはソヴエトの政治漫画家エフイモフの啓蒙形式なども学ばれた。
エリスは Fred C. Ellis (5 June 1885 – 10 June 1965) で1920〜30年代にもっとも華々しく活躍した漫画家。
Cartoons from the DAILY WORKER
https://www.marxists.org/history/usa/pubs/red-cartoons/index.htm
エフイモフは Boris Yefimovich Yefimov (Russian: Бори́с Ефи́мович Ефи́мов; October 11 [O.S. September 28] 1900, – October 1, 2008) でヒトラーとナチス政権をカリカチュアした漫画で知られています。
たしかに柳瀬は見事に彼らの筆法を自らのものとして使いこなしています。基本的には線描の巧みさ、形の捉え方の確かさ(デッサン力ということです)が並外れていたということでしょう。コマ漫画も上手いものです。
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柳瀬正夢は昭和20年5月25日、新宿西口広場で空襲にあって死亡しました。このときの空爆は淀橋浄水場を目標としたものだったようです。まるで現在のガザ地区のように市街地も無差別に爆撃されたもようです。
1945年(昭和20)5月25日の22時3分に、東部軍管区情報として警戒警報が発令され、つづいて同日22時22分には空襲警報に変わった。約250機のB29が、おもに山手線西部の焼け残り地域を空襲し、M69集束焼夷弾と250キロ爆弾などあわせて148,700発を投下した。翌5月26日の未明にかけ、約2時間30分の空襲により山手線西側の街々は壊滅した。今日の新宿区(四谷区+牛込区+淀橋区)でいえば、この日までに全住宅地や全商工業地の約80%以上が焼け野原となった。
落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)陸軍の地下壕が掘られた淀橋浄水場。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2019-08-20