わたしは負惜みからでなく平凡にして無名の一市民たることを有難く思つてゐる
『新居格随筆集 散歩者の言葉』(荻原魚雷編、虹霓社)読了。新居格、あらい・かく、じゃないですよ、にい・いたる。
名前は、文字通り、いたるところで目にするのですが、さて何か書いたものを読んだ記憶があるかと問われると、何も思い当たりません。新刊で読めるのは、本書と同じ版元の虹霓社から刊行されている『杉並区長日記 地方自治の先駆者 新居格』(2017)だけだそうです。古本でも新居の著書にはめったに出会わないような気がします。そういう意味で本書が刊行された意味は非常に深いに違いありません。
新居は阿波の撫養(むや)で生まれ、大幸(だいこう)で育ったそうです。本書に収められている「爽やかな海景」はその故郷、徳島県鳴門市の風光を描いて絶妙です。
じつは私の故郷、讃岐白鳥(さぬき・しろとり)は鳴門(なると)から車で一時間弱のところにあります。今、朝ドラ「ブキウギ」で賑わっている引田(ひけた)は白鳥の隣町、鳴門との県境に近い町です。ですから、かつては、自家用車で帰郷する際には撫養の町のなか通っていました。
「大鳴門小鳴門」などの新居の文章は非常に身近に感じられます。ただし、現在は淡路島から高松自動車道路へ直通できるようになったため、撫養のあたりは自動車道からちらりと眺めて通り過ぎるだけなのです。いずれにせよ、郷里が近いということでさらに親近感を抱きました。
アナキズムの立場と略歴にはあります。ただ、本人も書いているようにアナキズムといってもさまざまな程度があり立場も違います。私が本書を読んで思ったのは「小人閑居主義」(いま、ここででっちあげたイズムです)。それは、こんな主張です。
閑居派だけに喫茶店で珈琲を飲むのが大好きですから、引用したい描写は少なくないのですが、《わたしは珈琲が好きだが、今日となつては他のものを混ぜた所謂スフ入珈琲でなければほとんど飲めない。》(p136「生活の楽しさ」、底本:『街の哲學』青年書房、1940)という耳慣れない言葉だけメモしておきます。スフは本絹に対する人絹(レーヨン)のことでしょうか。ならば偽物入りコーヒーの意味になるかと思います。
代わりに読書論として「鮒を釣る卓」から一部を引いておきましょう。
荻原氏が編者解説で《没後もずっと読み継がれるような作家なんて、文学史の中でも一握りしかいない。だけど、一握りからこぼれた作家にも素晴らしい文章を書く人はいる。》(p240)と書いています。それを証明すべく、この note で、ごくわずかの引用ですが、にい・いたるの文章に触れていただければと思いました。
虹霓社という版元がまた素晴らしい。つげ義春からスタートして、『シュトルム・ウント・ドランクッ』、山田勇から、大澤正道『石川三四郎 魂の導師』、高木護『放浪の唄 ある人生記録』、山口晃『ある水脈と石川三四郎』などへ。なんともすごい版元です。
https://kougeisha.net
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