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高田馬場古本四銭


西脇順三郎『シュルレアリスム文学論』(天人社、昭和五年十一月十一日)

西脇順三郎『シュルレアリスム文学論』を入手しました。古書としてはそこそこ値のつく本ですが、これは線引き多数あり、後ろ見返しには書き入れもあって、ごく安価でした。

赤線引きのページ
後ろ見返し

その後ろ見返しをよく見ると《surréalisme/1934.12.22/高田馬場古本四銭》とペンで書かれており、高田馬場古本四銭は墨で消されています。発行時の定価が五十銭ですから、四年後に四銭は掘り出しものでした。当時の五十銭は現在の二千円前後だろうと思います。

渋谷の中村書店と神保町の田村書店のレッテルが貼付されています。これも嬉しいポイントです。

中村書店の古書目録『Bibliophil』
https://sumus2013.exblog.jp/24121714/

そしてその中村書店のレッテルの横に並んで朱印(フランスの国土をかたどった(?)朱色の地に白抜きの文字「よ」=「よしひさ」の「よ」?)とそのすぐ上に《鶴岡善久》と鉛筆書き。これがもうひとつのポイントでしょう。おそらく鶴岡善久旧蔵書であろうかと。

『鶴岡善久詩集薔薇祭』
https://sumus2013.exblog.jp/20848471/

だとすると、線引きは鶴岡氏による可能性もあります。ただし後ろ見返しの書き込みはさらにその前の所蔵者が施したものと思われます、鶴岡氏は昭和十一年生まれですから。鶴岡氏は渋谷宮益坂上の中村書店で書き入れアリとしてこの本を安く買った、というような想像もできますね。田村書店のレッテルは新しいので、鶴岡氏が亡くなってその蔵書が市場に出たときに田村書店が扱ったというふうに考えておきましょう。

内容については、よく読んでいないので、どうこうは書けませんが、ざっと眺めた感じでごく単純に書けば、ゴオル(Ivan Goll:イヴァン・ゴル)とアンドレ・ブルトンの主張するシュルレアリスムの定義の比較対照というのが全体を貫く柱でしょう。巻頭「シュルレアリスム文学論」のなかで西脇はゴオルのこんな発言を引用しています。[引用文中の旧漢字は改めました]

『現実はすべての偉大な芸術の根底である。それなくしては、生命もなく、実体もない。現実とは、吾々の足の下にある土、吾々の頭の上にある空である。』しかし此の現実を一つの優秀な(即ち芸術的な)面に転換することがシユルレアリスムである。 

p4-5

一方、ブルトンの説は潜在意識を尊ぶものです。

 要するに結局ブルトン氏の説は、フロイド学派にすぎない。けれどもゴオル氏の説は、意識的な芸術行為を主要なるものとする点に於て非常な相違るシユルレアリスムである。 

p21

 要するにゴオル氏の Image はメタフオラとしてのものであるが、ブルトン氏などのものは極めて心理的な科学的な実験的なものになつた。 

p29

さらにシュルレアリストは「土人」である説も出て、そして西脇の結論は次のようになります。

 シユルレアリストの世界は、サンボリストの音の世界でもなく、また「意味の尖塔」もない。単にイマジの世界である。またそのイマジはメタフオラでもなくアレゴリアでもない。シユルレアリストが、「タマリンドの樹」といつたら、それは、その樹の Image のみを表現するのである。その他に何等の意味も理智の活動をも象徴する目的でない。
  [中略]
 吾々が樹や牛をみると同様にその言葉は単にその言葉として存在するのみである。
 シユルレアリストそれ自身の存在とし〓、それに関する「笛吹きの争闘」を無益にするものである。
 要するに、シユルレアリストがサンボリストやブレモンの「純粋詩」と異る点の一つは音を重んぜずに、Image を重んじた。 

p31-32

シュルレアリスムは対象から見れば現実主義であり、作品においてはその表現形態と対象とを特に注意して区別するべきだと、この論文の初めの方には書かれています。どう描いているか、と、何を描いているか、は別物だということでしょうか(別にシュルレアリスムに限ったことではないでしょうが)。

形態が超現実であり、また愚人狂人の思考の世界であるかも知れないが、その対象は最も優れた現実の世界であるかも知れない。単に表現形態のみをみて、或いは表現形態とその象徴の対象とを混同して、軽蔑すべきでない。健全な批評家は、この点を区別するものであると思ふ。
 わからないならそれでいゝと思ふ。また嫌ひなら当然嫌ひである。自分としては、シユルレアリスムの運動として出て来る作品の多くは好まぬものであるが、しかし理解して行きたい興味がある。 

p11-12

見かけだけで判断してはいけない、と言っているのでしょうか? それはともかく、失礼ながら、西脇自身もシュルレアリスムは「わからない」し「嫌い」なのかもしれないなと、このくだりを読んで思ってしまいました。あるいは、わかるとかわからないなど、どうでもいいという悟りの境地なのかもしれません。

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