社会から突然不良品にされた話
人が人を「不良品」なんて言ってはいけない。『ワイドナショー』での松本人志さんの発言のことだ。強い言葉に酔うのはやめよう。論旨に理解できるところがあっても、それだけで全てが無効化されてしまう。なぜ人を不良品として扱ってはいけないのかについて書きたい。
かつて日本には「優生保護法」という法律が存在した。1940年に制定された国民優生法が戦後改められ、1948年に優生保護法として施行された。優生を保護するために行われたのは、もちろん劣性の排除。遺伝性と思われる精神疾患、身体疾患に対し、強制的な中絶や不妊手術「優生手術」を行った。まさしく人を不良品扱いした法律だ。もちろん、うちの子と同じ難聴や聾の人たちにもこの優生手術が行われた。
この法律は1996年まで存在していたという。たかだか20数年前。ひどい話だな、と思うかもしれないけれど、もっと驚くのは、この旧優生保護法に違憲判決が出たの今年の5月なこと。まだ一ヶ月も経ってない。未だに賠償責任が認められず係争中である、今現在の問題なのだ。これって、ほとんどの人がそうだと思ってきたからこそ、この状態が存置されきたのではないか。少なくとも、僕を含めたほとんどの人が目を背けてきたのは間違いない。
また、松本さんの発言に対し、「ナチスの優生思想に近い」という反論も見かけた。なんで「日本の優生思想」ではないんだろうか。80年前の外国ではなく、現在の日本で起きている問題なのに。人に「不良品」という言葉を発した人も、それを「ナチス」という言葉で批判する人も、同様に当事者だし、同様に欺瞞的ではないか。強い言葉に酔うのはやめよう。
次男は昨年、僕が38歳のときに生まれた。次男の難聴は遺伝性だ。僕も妻も、日本人の2%にある劣性の遺伝子を持っていたから、次男は難聴になった。もし一昔前に遺伝子解析の技術があったら、僕も妻も優生手術の対象者だ。つまり、38年生きてきたら、突然不良品になったのだ。そんなこと、想像もしていなかった。
もちろん現在も優生手術が行われているわけではない。でも、優生思想を80年も放置してきたこの国においては、みんな全く気がついていないだけで、いつでも誰でも不良品にされる可能性があるってことじゃないか。大げさな考えだとは思えない。松本さんはもちろんだけど、それを擁護する人も、さらには批判する人もみんな、そのことを自覚しているのだろうか。僕は全くしていなかった。
もう一つ例を出したい。次男の難聴がわかって、書籍を読んだり、聾学校の先生や、聾者の話を聞いて知ったことだけど、日本のほとんどの聾学校では、2000年代半ばまで手話が禁じられていたそうだ。代わりにどうするかというと、口話法といういわば読唇術。聾や難聴の人たちは手話をしないよう後ろ手にされ、このめちゃくちゃ難しい口話法を厳しく教えられてきた。
30代以上の聾や難聴の人にとっては本当に辛い記憶のようで、その話を聞くことが多い。口話法があまりにも難しいせいで身に付かず、手話もちゃんと習えなかったため、聴者とも聾者ともコミュニケーションができなくなり、孤立してしまう人も少なくないそうだ。ある聾学校の先生も、その時代の反省をしきりに話していた。
聾や難聴の人にとっての第一言語は、日本語ではなく日本手話だ。口話教育は聴者が聾や難聴の人を「不良品」と決めつけ、聴者に無理にあわせようとした結果ではなかったか。こんなのも全部、自分が関わるまで知るよしもなかった。これが、たかだか十年くらい前まで、公教育の現場で行われてきたのだ。
改めて思うけど、国ってかなり適当にできている。国家の本質が善であるなら、こんな不正義が起こるわけない。僕は「不良品」発言について、上記の理由から心底下品だと思うけど、そこまで批判するつもりもない。僕が松本さんに言えることがあるとすれば、ちょっと国家というものを信用しすぎているんじゃないか、ということ。政権に寄り添った発言しかしなくなるのも、首相と飲みに行くのも個人の自由だと思うけど、自分のしていることを自覚しているのかなと思う。
芸人は反権力であれ、なんてことをいうつもりもない。僕は、この国はよくできているし、結構いい国だと思っている。でも国家というものを野放しにしてはいけないというのは、300年以上前にジョン・ロックって人が言ってからずっと民主主義の約束事だ。憲法は国家を縛るためにある。世界中で立憲主義を採用している国が圧倒的に多いのは、国家というものがそもそも暴走を孕んでいるためだ。
思想の左右に関係なく、政権やどの政党を支持するかと関係なく、国家という権力は監視しなければいけない。そして、不正が起きないよう批判的なスタンスでなくてはいけない。特にメディアにとっては、メディア論の教科書の1ページ目に出てくるくらい権力の監視は重要なことだ。メディアはもちろんメディアに関わる影響力のある人たちは、その責任を重く受け止めなければいけない。それを怠ればどういうことになるか? 旧優生保護法と口話教育の問題がその証左だ。
首相と飲みに行ったり、首相と組閣ごっこ写真を撮ったり、政権与党から広告費をもらってファッション誌にヨイショ記事を作ったりして、監視や批判なんてできるのかな。少なくとも、僕は自信ない。勝手なようだけど、だからこそそういう人たちを信用できない。いや、でも絶対に無理でしょう。こういう話を書くのにある程度の覚悟が必要な社会の空気も、ほんとうに嫌だ。ああ、嫌だ。だから書いた。
最後に、ある日突然不良品になった当事者として書いておきたい。変な話だけど、次男の難聴がわかってほっとしたことがあった。それは、自分がレイシストではなかったことだ。もちろん、無自覚な差別をしていないか、常に考える必要はある。でも、差別的な行為や言葉を嫌悪する自分でいたから、難聴の次男も不良品の自分も嫌悪せずにいられる。
38年生きてきて、いきなり不良品になったのだ。どんな人だってなる可能性がある。もしこれを読んでいる人が、自覚的にだれかを差別をしているのなら、まず自分のためにやめることを勧める。
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