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人間の自由 3話・ UFOは風景のなかに

 パリからSNCFという国鉄に乗ってリヨンという街に向かっていた。家族3人でのフランス旅行。電車で4時間ほどかけての車中。
 ぼくは車窓からの景色を眺めていた。木のカタチや生えかた。ぼくたちが住む因島とは違う。島の森は植物がひしめきあったカオスの空間だ。フランスの森はもっと整然としている。木と木のあいだは夜空を眺めたとき星と星の配置のよう。枝はぐねぐねと曲線を描く。葉っぱが、まばらに点在している。葉が密集している箇所が。玉のようなカタチ。果実のようにぶらさがっている。妖精が腰かけてそうだ。小さなステッキを持って。羽をパタパタさせている。電車の窓にも魔法が伝わってくる。木に花が咲いた。空想まじりで窓の外を眺めている。意識の浮かびあがる手前の想像。記憶に溢れ落ちそうな連想。無意識に繰り返している。忘れたり思い出したりしながら。景色は通りすぎる。

 奥さんのミワコちゃんはうっとりしながら景色を残景している。パリに着いてから何度も「こんなところに住みたいわ〜」と。いまもきっと車中からの見える街に住んでいる自分を想像している。想いは木々のあいだでひろがる。

 ゆもちゃんは風景に退屈している。飽きてすぐに見るのをやめる。戦いゴッコをはじめる。景色に牛の群れが現れた。車窓にゆもちゃんはへばりつく。通りすぎると今度はお姫さまゴッコ。大はしゃぎ。絶叫が車内に響いた。咳払いをされた。周囲の乗客の目は冷たい。

「ゆもちゃん、この景色って二度と見ることができないかもしれないんだよ、もっとよく見てみたら?」
「だってつまんないんだもん!」

 2時間ほどで娘のゆもちゃんの退屈は爆発した。ネットもない。オモチャもない。絵本もない。ゲームもない。車内でかけっこもできない。走ってたけど……。ゴッコ遊びもできなくなって、退屈で泣きだしてしまった。ゆもちゃんに遊びを教えた。ぼくが小さな頃に電車でやっていた遊びだ。窓から景色を見る。走りさる風景に空想の忍者が走っている。電線に飛び乗った。ささささささ。軽快に走る。踏み外した。危機一髪、くるりと回転してまた走りだした。大きなビルが現れた。屋上に軽く飛び乗った。大きな山がある。世界は加速している。こんな速さじゃ山を登れない。
「ぜえーたいに! にんじゃさんはだいじょうぶだぞおお!」
 空想の忍者は軽く山を飛び越えた。
「みてー! だいちゃーん! ゆもちゃんのにんじゃとびこえたよー!」
 半透明の忍者の残像が見えている。精神と現実のあいだに存在する。2人は別々の忍者を感じている。2つは1つになる。またばらばらになった。景色は、景色を越えた。

 空を見ている。空だけを見ている訳ではない。空を見た反応で異世界が精神に生まれる。目には見えない世界。それはどこにあるのか。心のなかだと断定するのは簡単すぎる。意識に去来するものは、空を見なければ現れなかった。空とからだのあいだに何かが漂っている。

 因島で自転車を走らせていた。ゆもちゃんとぼくの弟のたかちゃんの3人。路地を通り抜けた。コンクリートでできた石垣があった。石垣の上に排水口がある。くいっと下に口を向けている。排水口から流れた水のカタチは跡になっている。跡から気配や記憶を感じる。石垣の全体は苔や汚れで黒ずんでいる。水の流れた跡には明るい色の緑の苔が生えている。エメラルドグリーン。水の記憶がカタチになった。わたしはここを流れた。溝に向かった。それから海にもどった。
 空は紫から黒に近い青に変わった。秋。空気は冷たいが心地いい。自転車は海沿いの道へでた。コンビニの明かりが眩しい。みんなで肉まんを買った。コンビニの駐車場。敷地内には30台ほど車を停められる。駐車場を抜けて防波堤に飛び乗る。1メートルくらいの高さの塀に3人で座る。海は闇に包まれている。コンビニの明かりが海面を照らす。きらきら静かに輝く。向かいの生口島が見える。山の上に鉄塔が立っている。チカっチカっ。塔のてっぺんで点滅している。星々が綺麗だ。美しくて体が溶けそうだ。夜に溶け込んだ。

 たかちゃんは肉まんをちぎって、フーフーする。ゆもちゃんに食べさせてあげる。

「あれ?」

 星が動いている。輪郭が溶けそうだ。ぐるくると不規則に回って見える。意識が溶けているのか。あれは星なんだろうか。回転する速度が上がる。スローモーションになる。ピントがボケているのか。たかちゃんに聞いてみた「あれが見える?」。「見えるなあ」と言った。「動いているなあ」とも言った。たかちゃんは実在主義者だ。見えたものしか信じたない。たかちゃんには幽霊もUFOもいない。さっきまでいなかった。「あれがUFOなんか」ぼそぼそ呟いた。UFOはS字の運動に変わった。ときおり姿が消える。消えたと思ったらまた現れた。「あれはなんなん?」。たかちゃんが珍しく少しだけ大きな声で叫ぶ。UFOの後ろのほう。小さな小さな光が無限にチカチカしている。煌めいては消える。光は一瞬、スケールを増す。小さな砂つぶのような光が壮大に輝く。チカチカチカチカチカ。また消える。運動を繰り返す。肉まんを食べ終わった娘は駐車場を駆け回っている。

「あの光……。ゆもちゃんにも見える?」
 娘は空を見上げている。光の点滅は、点滅を越えた共振をしている。光と闇の連鎖。太古から続く大いなる運動。チカチカチカチカ。光の粒は何百? 数千? 数万? 肉眼ではとらえれならない光もあるだろう。

「うわー! UFOさん! こっちにきてー!」

 ゆもちゃんの真上に飛行機が空に50機? ほど飛んで来た。飛行機は同時にこんな数が空に飛ぶのだろうか。夜空は深くなる。飛行機の光がぼくたちに存在を伝達する。「この光もUFOなんちゃう?」たかちゃんのリアリティの境界線は完全に消えた。消えるとはなんだ。消滅する線は最初からない。世界にあるのは変化と運動だけだ。夜空に明かりが灯る。赤、青、黄、オレンジ、紫、緑。光は点滅する。飛行物体が空を進む速度は一定だ。やはり飛行機だ。空からゴォーと音が聴こえる。これはUFOではない。
 細長いヘチマのようなカタチの物体が1つ。縦に回転しながら通り抜ける。速度の感覚は曖昧だ。スローモーションのようで、早送りの映像のようでもある。あれは本当に飛行機だろうか。

「うわー! こわくなっちゃったー」
 おびえる娘を自転車に乗せて家に帰った。
 
 連想が膨らむ。あれは空飛ぶ円盤なのか。円盤と思うことは、誰かが抱いたビジョンをなぞっているような気もする。不思議な光にもっと人知を超えた可能性を感じた。宇宙人が光を放って裸体で空にいるかも知れない。望遠鏡を覗いても正体を掴めるものでもない。光の運動は意識のなかに鮮明に残っている。大きな炎を放つ怪物が夜空を走っている。惑星が突然、思いもよらない運動を始めた。何万年前の光だろうか。闇にすぅーと消える光。あれは精霊か。不思議な光には、空飛ぶ円盤としてイメージを固定化もできないような、壮大なインスピレーションがある。風景を振動させる。

 UFOは風景なのだと思う。特別なものを見たという感じはしない。空を見上げれば夜でも昼でも関係なくいる気がする。空にあるすべての存在をぼくたちは感知することはできない。わかってしまったと思い込んでいて、見逃している何かが空で踊っている。

 パウル・クレーは概念には、その概念に抵抗する運動がなければ、世界を形成しない。というようなことを書いている。概念自体は何処にも存在しないのだから。「上」は「下」がなければ存在しない。
 

 クレーの『造形思考』という本がある。ページをめくると絵を描くための思考様式が綴られている。クレーの思考は、思考そのものを超えようとしている。言語は、言語に抵抗しながら真理や宇宙へと接近する。概念は獣のように思考の枠から解放される。クレーは否定も肯定も揺らして拡散するコスモを誕生させた。事物は直線でも曲線でもなく、自由奔放に動いている。クレーの世界観は絵という気ままな宇宙を無限に形成させた。絵という跡には言葉や意味はない。あるのは変化と運動だけだ。跡はつむじ風に吹かれてカタチを変えた。

 リヨンから電車でサン・バリエという街に向かった。そこからバスに1時間ほど乗ったらオートリーヴという田舎町に着く。シュヴァルの理想宮を観るために行った。シュヴァル、ヘンリー・ダーカー、カフカはぼくの3大スターだ。彼らの創造は職業というちっぽけな枠におさままりきらない。お金にも経済にも囚われずに、死ぬまで創り続けるという小さな営みと、大きな世界を創り出した。
 シュヴァルは郵便配達夫をしていた。毎日、往復20キロを歩いて配達した。同じ道を歩く。同じ風景。世界は変化の連続だ。昨日と同じ光景は二度と現れない。風景は精神を活性化させる。シュヴァルは10年間、同じ道を歩いて妄想し続けた。
〝宮殿を建てたい〟
 シュヴァルは大工や左官仕事をしたことはない。
〝わたしにできるのだろうか〟
 空想をひろげながらも悶々としていた。
 
 ある日。配達中にシュヴァルは石につまずいた。土に埋もれた石が頭を覗かせている。石を掘り返した。3つが重なって1つになったような石だった。カタチは不思議で奇妙だけど心がなごむ。
〝この石で宮殿を建てよう〟
 たったそれだけのことだった。悩んだ10年がウソみたいだ。シュヴァルはそれから33年間かけて、たった一人で石を積み上げて宮殿を完成させた。家族に呆れられても、周りの人々にバカにされてもシュヴァルは創造するという営みをやめなかった。のちにピカソやアンドレ・ブルトンもシュヴァルの理想宮を絶賛した。
 シュヴァルの存在を知ったのは20年くらい前。いつも心の片隅にシュヴァルがいた。

 洗練とか完成度は、創る者が掴んだ世界の感触をじつは薄めてしまうのでは? とも思わせる荒削りな建物の中にシュヴァルの宇宙は詰まっている。

 ぐねぐねした建物はときに歪に、ときには大胆に、ときには繊細に、眼球と精神に直撃した。平面は一つもない。直線は社会が効率のためにつくり出した人工物なのかも知れない。ヘビはにょきにょきと行進する。様々な動物や昆虫や植物がうねる。

 建物自体は小ぶりなんだけど、細部に大きな空間がある。細部を見つめる。もう一度、建物全体を俯瞰する。すると小ぶりに感じていた理想宮は、広大な世界になった。バルセロナで観たサクラダファミリアも比ではない。大きさとは堆積の問題ではないのだ。シュヴァルの理想宮はこの星にあるどの空間よりも壮大だった。

「かくれんぼしようよ〜」

 ゆもちゃんがせがむので、しょうがなく付き合った。もっとじっくり観たかったけど。理想宮の中は洞窟のようになっている。壁には馬や羊や魚が泳いでいる。外観の躍動感と反転した世界。ここは静かだ。ぼくの体がすっぽり入るような穴があった。隠れた。
〝もういいーよー〟
 声は空洞を反響させて消えた。全てが消えて無になったみたいに。何も響かない。静かだ。声の気配のカケラは全てが消えてもなくならない。外でけたたましく叫ぶ娘の声も、ここでは錯覚のように感じる。空気は振動したがっている。揺れはシュヴァルに吸いとられる。壁に頭をつけた。目を閉じる。まぶたの裏は真っ暗だ。光の気配がぼんやりと残っている。光は一点に集まる。強い発光へ変化した。光は赤から紫に変わった。次第にオレンジに。さらには黄金にグラデーションを描く。皮膚からは石の温度が伝わってくる。冷たい。暖かい。不思議な感触だ。光は分裂した。ばらばらばらばらばら。イメージのなかに満天の星空が誕生した。星は絶えず変動している。集まって大きな塊になった。巨大なヘビのように、うねうねと動きだした。メビウスの輪のようだ。螺旋になって光は動き続ける。もう一度、一点に集合した。エネルギーの塊は惑星になった。

 理想宮から徒歩で20分くらいの所に、シュヴァルが8年かけて建てた「終わりなき沈黙と休息の墓」がある。駅前の商店街から少し離れる。くまのプーさんの100エーカーの森のような場所があった。

 川が流れている。林の中は雨の水をふくんだ枯葉がしきつめられている。川沿いには石が無数に転がっている。シュヴァルもここで石を拾ったのだろうか。ぼくたち夫婦は石拾いに夢中になっていた。ゆもちゃんも石を掴んで川に投げる遊びに夢中になっている。石が宙を舞う。風を切る。水しぶきをあげる。水滴は太陽の光を鏡のように写す。きらきら。空には魚の群れのような雲が泳いでいる。あぜ道を歩く。

 広大な大地に土が顔を覗かせている。石が流星群のように無限にあった。この風景は、かくれんぼしたときに感じた、シュヴァルの宇宙そのものだ。あぜ道に風が吹いた。土と草の香りがした。
 

 シュヴァルのお墓に辿り着いた。建物を見る。太い血管のようなカタチとカタチは、ぐねぐねと絡みあっている。

 駅までの道をもう一度歩いた。石、濁流の音、空には細切れの雲。風景は世界を肯定していた。人生で一度っきりになるかも知れない道を家族で歩いた。

 夕陽は沈みかかっている。帰りのバスに乗り込んだ。歓声があがった。40人ほど乗れそうなバス。小学3年生から6年生くらいの子どもたちで満員だった。みんながゆもちゃんが話かけてくる。車内は大騒ぎ。歓喜に満ちている。フランス語だから何を言ってるのかさっぱりわからない。ミワコちゃんが英語で語り返す。あんまり伝わらない。子どもたちはスペイン語が少しできた。ミワコちゃんもスペイン語がちょっとできる。片言どうしで意思が交流する。どこからやって来て、どこへ向かうのかとか。子どもたちはストレンジャーに興味津々だ。ゆもちゃんはアイドルのように見つめられる。くりくり頭で丸メガネの男の子。近眼なのか目玉がメガネから飛び出そうなほど大きい。席が空いても座ろうとしない5人ほどの集団。ゲラゲラ笑う。愉快な音楽のように声を発している。
〝オヴァ〟
 お別れの言葉。5人ほど子どもが去って行く。1人1人がゆもちゃんに向かって言う。ゆもちゃんも小声で恥ずかしそうに〝オヴァ〟と返す。また5人ほど新しい子どもが乗って来る。
 うすい紫のトレーナーを着た女の子。グレーに近い落ち着いた金髪。肌は透きとおるように白い。となりには体にぴったりの黒いワンピースを着た膨よかな女の子。この子は喋らずにずっとうつむいている。耳と意識はこちらに向いている。ミワコちゃんと紫のトレーナの女の子はずっと話ている。ぼくとゆもちゃんは何も話ているのかわからない。外はすっかり闇に包まれた。車内は明るい
「何を言ってるのか、全然わからないねえ。でも楽しそうな感じとか伝わってくるね」
 ゆもちゃんは興奮した顔をしている。何かを思いついたようだ。
「そうか! エマ(家で飼っている犬)はこんなかんじで、きいてるんちゃう?」

 犬や猫は言葉のわからない遠い国の声を聴くように、人間と暮らしているのかもしれない。エマが家にやって来た日。ぼくの布団に入って来た。しばらくエマを撫でた。エマの耳の外側に口をつけた。
「ここに居たかったら、ずっと居てもいいからね。ずーと」
 エマはじっと聴いている。目があった。目をそらした。犬は天井を見ている。遠くを見ている。エマの目からつぅーと涙がでた。何かが交差している。音の粒が行ったり来たりしている。

 小学生のときに飼っていた猫の記憶が蘇る。途切れ途切れだが5年くらいは飼っていたと思う。名前はアイちゃん。人懐っこい猫だった。とくにぼくの母に懐いていた。アイちゃんは母が行くほうに引っついて歩いた。当時は、大阪の高石という下町に住んでいた。公営住宅のような佇まいの建物だった。みんなはマンションと呼んでいた。5階建て。階段は5つあった。5棟に分かれていた。当時ですでに築20年くらいは経っていた。白色の外壁はくすんだグレーになる。一度だけペンキで塗り直され真っ白になった。また汚れた灰色になった。アイちゃんの家はこの建物の全体だった。外猫と家猫でもない。もともと猫に外も家もない。猫は空間の運動だ。
〝にゅわあああぁ〟〝にゅわあああぁ〟
 アイちゃんは奇声を発した。発情期が始まった。夜中に出て行ったきり帰って来なくなった。1ヶ月くらい。泥だらけで帰ってきた。発情期が来るたびにアイちゃんはいなくなった。毎回、1ヶ月くらいで帰って来る。連続する運動を繰り返した。5年ほどの歳月が流れた。また発情期が来てアイちゃんはどこかへ行った。2ヶ月。3ヶ月経っても帰って来ない。母は「アイちゃんには新しい家族ができたのよ」と言った。半年ほど経った。アイちゃんが帰ってきた。毛先が血で固まっていた。キズだらけだった。綺麗に洗い流した。母はもうアイちゃんを家に入れなかった。獣の匂いがする。近所の人がアイちゃんを飼い始めた。その家からもアイちゃんはいなくなった。
 猫が人間と暮らす。猫はどんな風に人間を見ているのだろう。聴いているのだろう。感じているのだろう。

 猫のアイちゃんがいなくなって3年くらい時間が経った。ぼくは中学生になっていた。住んでいたマンションから駅まではまっすぐな1本道。500メートルくらいだろうか。古本屋からのカビ臭い匂い。パン屋からはチョココロネの甘い香りが漂ってくる。市場からは魚を叩き売るしゃがれた声。どろどろになった小麦粉をたこ焼きの鉄板に流し込む音。じゅわあ。駅の高架下にはお店が並んでいる。定食屋、クリーニング屋。駅のホームからアナウンスが響く。

 生まれて初めて映画館に1人で行くために駅に来た。高架下とホームとのあいだに隙間があった。そこに1匹の猫がいる。茶トラの猫と目があった。アイちゃんだった。ぼくたちは1分ほどだろうか。見つめ合った。もっと長い時間だったかも知れない。もっと一瞬だったかも知れない。このときがアイちゃんと会う最後の日になった。高架下のコンクリートはどす黒く、くすんでいる。1匹の猫は建物の隙間を駆け抜けた。未知なるトンネルを猫が開通させた。そこに人間の道はない。アイちゃんは人間と暮らして、それから世界に放たれた。
 猫は動物でも生命体ですらなく、光の運動のようだ。宇宙の収縮と拡散。もしくは雲の流れ。

 空には無限の可能性があった。子どもの頃はそうやって全てを見つめていた。社会は何かを決めつけて固定化しようとする。それもじつはフィクションだ。世界の混沌を収縮化するための。集団でつくるフィクションは茶番だ。その茶番に都合のいい人間がいるだけだ。そこから意識と肉体を飛びだせ。それは決して孤立することではない。自分の足で立つことだ。自立は足腰だけでするものではない。ぼくたちには精神の足がある。その足で無意識という大地を歩く。シュヴァルのように。アイちゃんのように。散歩の途中に空を見上げる。そこには何かが遊びながら踊っている。


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