「市ヶ尾の坂」勝手に裏読みレビュー
岩松了の作品は、どんなに深読みしてもしきれないほどの、いろいろな物語に満ちている。想像を広げたくなる補助線が沢山ある。観客ひとりひとりが勝手なイメージをいろいろと拡げていける仕掛けと余白がある。ということで、今回の「市ヶ尾の坂」も思わせぶりな台詞の応酬を聴きながら、私なりに紐解いて裏読み、拡大解釈(もしかしたら誤読)しまくろうと思います(^^) 以下はネタバレばかりです。観劇し終わった人しか読む意味ないし。
1.幸せだった日の母の面影(ラストシーンの解釈)
画家の朝倉の後妻となったものの、朝倉の連れ子のヒロシとうまく母子の関係を築けない(朝倉カオル=麻生久美子)。いっぽう少年の頃に母親を亡くし、オトナになってもどこか母親なるものを追い求めてしまう三兄弟。長男(大森南朋)と次男(三浦貴大)と三男(森優作)。母の不在が大なり小なり心に傷を残す三兄弟に、恋愛対象となる女性の気配は感じられない。ここは田園都市計画の一環で取り壊される直前の市ヶ尾の一軒家。あと少しで取り壊され無くなってしまうのは、(亡き父母との思い出も残る)家族の時間と空間だ。そこで、カオルと三兄弟はお互いを気遣いながら他愛のない会話をして時間を過ごす。ラストシーンがひときわ輝いて見えるのは、とうとう子どもを失ったカオルが、三兄弟の飲み物を入れるために台所に立ち(ただの近所付き合いの茶飲み友だちから一歩踏み込み)三人の無意識の願望を汲み取って、三人のかりそめの母親になっていることだ。無邪気な学が要求した「ホットミルク」を台所で入れる女性は母親の象徴でしかない。
そしてカオルは長男の言葉に従って三兄弟の亡き母の浴衣を身にまとう。三兄弟はそこにありし日の母の幻影を見る。それはおそらく、幸せだった遠い昔のワンシーン、親子ではしゃいだ地元鶴見川の花火大会、思い出の中に浮かぶ若き母の浴衣姿に違いないのだ。次男は第三幕の花火の晩に「オレら花火は子どもの頃は好きだったけど今は嫌いなんだよ。大人になると夏に寂しさを感じる」と言ったり、花火から逃げるように「横浜に出ようかな」と言って、花火を見ないように忌避していたが、三兄弟は花火のドンという音に誘われるように気分は高揚し、思わず部屋の中でチークダンスを踊り出す。コミカルに笑いに包む表現をとりながら、三兄弟は大人になってお祭り嫌いになったのではなく、地元の花火大会が誘発する亡き母との思い出に浸る寂しさを避けていたのだと想像できる。(ちなみに鶴見川の花火大会は現存しているが、市ヶ尾の鶴見川沿いから打ち上げていたのは昔だそうだ)
二階で浴衣に着替えたカオルが階段をゆっくりと降りてくる。素足が見えて浴衣が見える。長男のところに降りてくる。観客に見えるのは角度的に脚と浴衣しか見えない切り取られた視界。その時、母になれなかった女と母を求め続けた息子たちの、それぞれの欠けた部分が「合わせ絵」のようにピタリとはまり、しあわせそうな母子像を浮かび上がらせておいて幕は閉じる。一瞬の幻。この時間とこの空間は失われる。幻影の母子とともに。ちょうど我々が観ているこの生の舞台と同じように失せるのだ。だから物哀しいと同時に尊くて美しい時の余韻を残して溶暗する。時を経ずに三兄弟は父母と暮らしたこの家を去る時が来るのだろう。岩松了は階段の演出家ともいえる。わたしの知る限り、階段の演出で突出していたのはこの「市ヶ尾の坂」にくわえて「月光のつゝしみ」と「水の戯れ」か。
2.キャスティングと舞台設定
初演は1993年9月、今から25年前に下北沢スズナリで上演されている。当時のキャストが、竹中直人と田口トモロヲと温水洋一が三人兄弟。荻野目慶子がカオルで片桐はいりが家政婦で画家は今回と一緒で岩松了である。私はこの初演を観劇していないが、おそらく初演はアテ書きであっただろうことが想像される。再演は初演脚本に忠実に作られているようである(而立書房の脚本を読む限り)。緻密に丹念に練りこまれた役作りになっていて物語に惹きこまれる。
舞台セットは、古い日本家屋の障子の部屋にバーカウンターのあるバランスを欠いたインテリア。おそらく両親が相次いで亡くなって取り残された若い男三兄弟は、いつかの日に部屋を改造してバーカウンターを部屋の真ん中に据えたのだろう。カオルが渋谷で待ち合わせた昔からの友人にこの部屋の話をすると「ヘンテコな部屋」と称される。外にはバスやトラックが走る車道が迫っている。例えば「家の壁がバタッと倒れると、スッピンの私の顔が晒されるのね」のような台詞、「昔は田んぼだらけだったけど行政が車道を増やす」とか「あの音は雨の音ではなく、アスファルトに大型トラックのタイヤが軋む音ですよ」というような台詞から想像されることは、都市計画は待ったなしで家の傍まで車道が迫り、立ち退きを余儀なくされるということだ。(以下はフォトコール)
3.キーワードは五歳男子(学とヒロシと松葉杖少年)
三人兄弟の父親はおそらく重い病気を患って入院していた。それは昭和44年で長男が中学生で三男は五歳くらいという台詞がある。(これは想像だが)この後、三人の父親は病死して母親は看病疲れか精神的にやられてしまったか後を追うようにして亡くなったのではないか。台詞では、ほぼ同時期に父母が亡くなったような描写がある。母を亡くした時、とりわけ幼かった三男(当時五歳)は、母を失うだけでも精神的な傷が深い上に、母親喪失時に母との感情の折り合いをつけられない一種のトラウマを抱えてしまっているようだ。幼児性が抜けきらない情緒不安定な行動が多く見られる。(例えば、カオルの飲んだアイスティのストローに口をつけて飲んだり)
そのトラウマとは何か。ある日、病気の父を見舞いに来た三兄弟は、病院で松葉杖をつく五歳の少年に目が留まる。少年は自分が病気であるのに悲観せず毅然とした態度で大人のような振る舞いをしている。それを見た長男が「あいつ、お前と同じくらいの歳だ、カッコいいなあ、大人みたいだ」などと言ったのだろう。三男は当然「僕だって!」となる。常に子ども扱いされる末っ子は自分だって「大人のように見られたい」という気持ちから「あの少年の松葉杖はオトナになれるツール、自分も欲しい」という短絡的な発想になる。ある日、母親は、少年用の丈の短い松葉杖を三男にプレゼントする。(おそらく長男が、母に三男が欲しがっていることを告げたからだ)三男からすると、母親が自分のために、自分の好きなものを、買ってくれたのだと思って歓ぶ。(想像するに、母親からすれば三兄弟を育てながら夫が入院していることを考えると、家計はかなり逼迫していたことだろう。三男は常にお兄さんのお下がりを着ていただろうし、自分のために親が買ってくれるという機会は、長男次男に比べて少なかったことも想像できる)この頃の母親が三男ばかり可愛がることに嫉妬した次男はわざと入院中の父親の絵を描いて母に対して強がったと台詞にあるが、次男は三男に嫉妬していた。だから母の三男へのプレゼントに残酷にも水を差すのである。それは母が買ったものではなく貰ったものだと。そのカッコよかった少年が病院で亡くなった後に譲り受けたものだと。三男は、母の自分への愛情が穢されたと思い「そんなことない、お母さんは買ってくれたんだ」と抵抗する。すると次男は「じゃあどこで買って来たんだよ」という、次の瞬間、母親は店の場所を答えられない。なぜなら次男の言う通り、買ったものではなく貰いものであるからだ。
この状況が、ひときわ物哀しく感じられるのは、舞台小道具としての松葉杖の存在である。母親が子どもから「子ども用の松葉杖買ってよ!」と言われて、ハイハイと買ってあげる母親がいるだろうか。かわいい我が子が松葉杖で足を引きづって遊ぶ姿を快く受け入れる親などいない。もともと健康体の息子に買い与えるオモチャではないのだ。いっときの気まぐれとも思える松葉杖を買うくらいなら、子どもの将来のための別の物を買うだろう。しかし幼き五歳の三男には親の心情はぶっ飛んでいて自分本位だから、次男との対抗意識の中で、自分は母に裏切られたという感情しか残っていない。そんなエピソードから時を経ずに母は亡くなった。「他人から譲り受けた松葉杖」は、亡き母の三男への愛情が薄い象徴ではなく、病室で他人から無理言って譲り受けた子を思う母のプレゼント。岩松了はそこを計算して「丈の短い子ども用の松葉杖」を、冒頭から舞台の上に配置している。松葉杖は、第一幕が開けたとき、ちょっと「ヘンテコな部屋」の中にある悪趣味なグッズにしか見えていない。それが幕が進むにつれ、三男のトラウマを語るツールとなり、最後の第四幕では、かりそめの母となるカオルが、倒れた松葉杖を丁寧に揃えて置き直し、舞台の片隅の物言わぬ松葉杖が語り出す感じになっている。
4.三男が抱く母親像と朝倉カオルへの投影
三男の思い描く理想的な母親像はこんな感じだ。「自分のことを一番思ってくれて、自分の好きなものをわかってくれて、自分のために自分の好きなものを買ってプレゼントしてくれる優しい母親」。この中で「自分のために買う」ということに異常に固執している理由については、前述したとおり。三男は、こうした昔の自分をヒロシ君に重ね合わせ、母親失格になりかけたカオルに、母子で傷つかないように、ちゃんとした母子の関係を築いて欲しいと願い、あるプランを半ば強引にカオルに強要する。「三男自身が買ったドナルドのバッヂを、カオル自身が買いに行ったことにして、ヒロシ君に思いこませれば、プレゼントされたヒロシ君は喜び、母を慕うはずだ」という強引な自論である。このプランは失敗に終わるのだが、失敗の過程で、いろいろな感情が、三男の中に、朝倉カオルの中に、画家の朝倉の中に、長男と次男の中に沸き起こることになる。
三男はカオルにミニーズハウスへ行った方がよいと勧める。なぜなら、プレゼントを渡したら、子どもにこう聞かれるからだ。どこで買ったの?と。そのとき買ったお店の様子を話さないといけない。話せないともらい物であることが立ちどころにバレるからだ。しっかりとお店の中の雰囲気や店員まで観察しないといけない。自分みたいにヒロシ君を悲しませていはいけない。悲しませたら母子の関係は終わる、そう言いたげだ。
この、お店をちゃんと観察するくだりの台詞構成が巧いのは、まず第二幕で、カオルが店の中の様子を「どうせこんな感じでしょ」と当て推量で適当に話すシーンがある。つまり、この程度の描写で五歳の子なら騙しきれるわという前振りである。それが最後の四幕では、実際にカオルは母親になる努力をするため、三男の指示通りミニーズハウスへ行って店の中の様子を記憶に刻んだので、かなり事細かい描写を語り、店の様子が聞いている人の目に浮かんでくることになる。ポイントはカオルの描写が細かければ細かいほど三男は涙があふれて泣きじゃくるという表現だ。直前カオルのバッグの中にバッヂを発見してしまい「渡さなかったこと」をカオルに責めた三男は、この時カオルの逆襲にあうことになる。三男がひとり泣くのはカオルの無念が三男だけに理解できるからである。カオルが確かに店に行って店の様子を懸命に記憶にとどめた結果むなしくカオルはバッヂを渡すことに失敗した。ミニーズハウスに行ったことのある三男にしかわからない過剰なまでの店の描写を突き付けられた時、描写は暴力になる。
三男にバッグの中に入ったままのバッヂが見つかってしまったとき、カオルは「ヒロシは喜んだのよ」と切り出している。ということは花火の晩にバッヂを見せるところまではいっている。ではなぜ渡せなかったのか。カオルの第一幕の台詞に、ヒロシ君がある日手を伸ばしていたのはタオルが欲しっかったのではなくドナルドのバッヂが欲しかったのだ、そんなこともわからない自分は母親失格だという台詞がある。おそらく想像だが、ヒロシ君にとってバッヂは複数の意味を持っていたのではないだろうか。ヒロシ君が手を伸ばしたのは「大好きなドナルドのバッヂ」だが、もっと言えば「大好きな産みの母親がくれた大好きなドナルドのバッヂ」なのだろう。もしそうだとしたら、カオルが花火大会の晩にヒロシ君にいざプレゼントしようと見せ、「ほら、ドナルドのバッヂよ」に対してヒロシ君のとった反応は、「ああ、これ。(産みの母)ママがくれたバッヂと同じシリーズだあ!」と目を輝かせたのではないだろうか。カオルにとってドナルドもミニーズハウスも探求する意味があったのだろうか。バッヂに先妻の影を感じたカオルはきっと「ごめんね、これね、もらいものなの」などと言ってバッヂを取り返し、「ミニーズハウス」をヒロシ君に語ることなく別れたのではなかったのか。ここのところ、実際の台詞では以下の表現になっている。(観客によっては別解も出てきそう)
カオル「わかったわ、私が間違っていたのよ……そもそも私が、自分の足で、あざみ野に行こう、と思ったそのときから……だから、私が「ミニーズハウス」で過ごした時間は……そうね……ちょうど……(考えて)そうちょうど、子供の頃、波打際の砂でつくった私のお城を、あとかたもなく波にさらわれたようなものよ……でも……考えてみれば、それも楽しかったわ……あとかたもなくなるってことも……」「市ヶ尾の坂ー伝説の虹の三兄弟ー」而立書房
カオルのミニーズハウスの細かな描写に伴奏するかのように泣き始める三男という演出もスゴイのだが、ここでカオルは即座に泣く三男を叱咤するところもスゴイ。「答えて。ね、その通りでしょ?」「どうして? どうして答えてくれないの?」と。ちょうど母親が我が子を叱るように責めたてる。大人になった三男も気付き始めてはいる。店で買ってくれたかどうかが重要なのではなく、どれだけの想いがそこにあったかが重要であることを。カオルの細かな描写を聞きながら、遠いあの日松葉杖をくれた母の想いを今更ながらに感じ、わがままだった自分を時を経て怒ってくれているような現前のかりそめの母に想いをダブらせて泣くのである。
5.上演台本のド真ん中に位置する「三連水車」
まずは、youtube上にあった三連水車動画から。2013三連水車ライトアップ
三連水車の動きをカオルが滔々と語る長台詞は第二幕のラストである。ことさら照明が絞り込まれ、何かを暗示する中盤のハイライトシーンとして演出されている。朝倉カオルはとても貴重な体験のように三連水車の動きについて語る。そして自分だけが見つけた発見だと悦ぶ。三兄弟は、それぞれ個性は違ってぶつかり合うけれど常に離れずに寄り添って生きてきた。そう、三連水車はそのまま三兄弟にイメージが重なるのだ。三つの水車には滴の輝きが反射する瞬間があるが、それぞれズレて反射するタイミングがくる。小さな三男が輝き、次男が輝き、長男が輝く……。
ここのカオルの長台詞の一部分だけ抜粋してみる。
カオル「(前略)もうはっきりわかるんです。ああ、違う速さだって……わかりますか?それはそのとき、そこにいた私が私だけ知って、私だけ嬉しくなった出来事なんですね。ホーラちがう速さだって……。私はそのことを誰かに言いたいけれど、誰もそこにはいないから、ただ、もう心の中で、その水車たちに語りかけるように、キミたちがちがう速さだねって……(少し笑って)ホントに生きているようなの、その三連水車は……(後略)」「市ヶ尾の坂ー伝説の虹の三兄弟ー」而立書房
台詞の「キミたちがちがう~」の部分はリアルなリビングの照明から、ぐっとダウンして、カオルが三人を見据える。さらに観客にわかりやすくするために、長男が自分たち三人のことを喋ってくれてるんだねという合図、それぞれを指差すジェスチャーを入れている。ずっと三連水車(三人兄弟)を見ていたから他の誰よりも私自身が知っている三つの輝き(個性)、これこそ三兄弟が求めていた台詞。天国から今も母に見つめていて欲しいな、天国からこんな風に三人を語って欲しいなというような。そう考えると、敢えて絞り込まれた非現実的な照明も幻影の母の演出にも見えてくる。
6.長男の人物造形
両親を亡くした後、三兄弟で生きていかなければならなくなった。家の中には大人がいない。兄弟三人で生きていくために長男は何かを捨てたであろう。情緒不安定な三男を守らないといけないから、おそらく進学をあきらめて地元で郵便配達夫となって、三男も自分の目の届く同じ職場(支店は別だが)に勤められるように手配したに違いない。長男は、言わなくてもいいことを言うな!と家政婦に怒鳴ったシーンがある。繊細すぎる三男のことを思えば、「松葉杖がもらいものである真実」も「ヒロシ君がカオルさんの子でない真実」も言わなくていいことであり、隠すべきことである。三人の気持ちがバラバラになったら、家庭崩壊する。兄弟が幸せになるために、長男としては、常に何かを隠しながら、弟に知られないように努力してきた人生だったわけだ。長男としては、家の中で三人で確認しあって三だと決めたことが、誰かの告げ口で、四になったり五になったり、配慮ない大人の噂で十になったりして動揺したくない。外野の声をなるべき聞かないようにして生きてきたことが想像される。
7.冒頭シーンの直前にあったこと
まず出会いは郵便物の配達であろう。長男が朝倉家に郵便を届けたとき、玄関先で新しく越してきた朝倉カオルとの出会いがあって、ひとことふたことの会話があった。カオルはヒロシ君のバスでの送り迎えでバス停にやってくるときに、三兄弟と挨拶を交わすようになって次第に会話も増え、子育てに悩む後妻は一般的な男の子の気持ちを推し量ろうとと三兄弟に男の子心理のアドバイスをもらうような流れができて、次第に親密になって家にお邪魔する関係になった。
カオルさんが子育てに行き詰った頃、しばらく家政婦がヒロシ君の送り迎えをしていたが、今朝がた、久しぶりにバス停にカオルが訪れ、何かのきっかけで音楽の話になって、そのレコードなら家にありますから今度お貸ししますよ、という話に。「今日は昼過ぎにまたバス停に来て、幼稚園から市ヶ尾の坂上に戻ってくるバスから降りてくるヒロシを迎えに出なおしますので、少し早めに家を出て時間をつくって三兄弟のお宅にお邪魔させてもらいます」というようなことになった。
三兄弟は早速、家族会議でまず次男が仮病を使って、渋谷の会社を休むことにして、何時に来るかわからないカオルを出迎え、部屋にあがってもらうという算段を整えた。気遣いにかけては誰よりも先廻りする長男が次男よりも先に次男の会社に電話を入れて休みを告げた。次男が病欠を告げようと電話した時には「からだ大丈夫ですか?」と聞かれる始末。そして地元の郵便局で働く長男と三男はお昼過ぎに長めの休み時間をとって、カオルが家にやってくる時間に一時帰宅するのである。
冒頭シーンで明転したとき。ちょうどドラマの途中からTVを点けた時のいうに、会話の途中から始まるので、その前後の文脈を想像しないといけないのだが、最初の会話はカオルの幼き日の話を次男に語っている。会話の中に三連水車に触れる部分から始まっている。
8.隠された関係性や経緯を推理することで拡がる演劇
岩松演劇はとにかく観ながら推理する。まず、登場人物ひとりひとりの言動からこれまで辿って人生や過去を想像する。次に、シーン毎に誰と誰が一緒のシーンにいて、台詞は同じ場にいる人との関係性から出たものだと把握して裏に隠された心情や関係性も想像する。最後に、暗転があった場合は時間経過があるので、明転した次の幕までの時間(暗転の間)にどんな事件が起きたのか想像する。というわけで、推理、推理の連続である。冒頭も登場人物の関係性を明白にさらさないスローな始まり方で、自己紹介のような台詞は一切排除されるから舞台が進行してから関係性を探索しなければならない。そこが魅力である。
ということで、岩松演劇観劇後には必須(毎度ながらの)「暗転の時間帯に誰が何がしでかしたのか」の整理である。
第一幕。朝倉カオルが三人兄弟の家に訪れる四人のキャラを見せる場。続いて暗転。
【この暗転中に起きていたこと】朝倉カオルが子育てに悩み、三男は家政婦からある事実を告げられる。ヒロシ君はカオルの子でなく先妻の子であるという。家政婦はそれを話したくてうずうずして三男に話し三男は酷く動揺する。同じ時間帯に朝倉カオルは渋谷で朝倉の先妻に呼び出され、カオルは次男から借りた市ヶ尾⇔渋谷の定期で渋谷で先妻と会うと、先妻は仕事から帰宅した誰もいない空間で寂しいと泣かれ、子どもを返してと訴えられる修羅場。
第二幕。家政婦と三男の会話から始まり他の登場人物も集まってくる。三男のキャラがにわかに立ってくる。カオルは渋谷で友人と会ったという。 (※後にここでカオルは嘘をついていることがわかる。カオルが会ったのは友人ではなく、画家の夫朝倉の先妻であり、先妻に呼び出され子どもを返して欲しいと泣かれたことがわかる。その修羅場に「ヘンテコな部屋」という笑いを誘うフレーズを入れることで荒んだ心を癒しているのだ) 続いて暗転。
【この暗転中に起きていること】画家である朝倉が三兄弟の家を訪ねてきて、長男が卑屈にヘラヘラと対応したと次男には見えたこと。
第三幕。鶴美川花火大会の当日。にぎやかな花火をバックに部屋の中にいる登場人物たちも心がかき乱されている。続いて暗転。
【この暗転中に起きていること】結局カオルは花火大会でドナルドのバッヂをヒロシ君に渡そうとし渡すことはできず、ヒロシ君は先妻の元に去っていってしまった。
第四幕。カオルが三兄弟のかりそめの母になる幻想のラストへ。
暗転で隠されたシーンの中には、物語が転がるきっかけになるシーンが多いのだが、それは舞台の上で表現されない。誰かの言葉によって意味を含んだように語られる。「どんな顔をしてどんな感情が渦巻いていたのだろう」と観客の想像を余儀なくされる。ひとの感情や行動が変化するきっかけは常に隠されている。
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書きたいことを書き連ねましたが、まだまだ書き足りない感じです。追加で書きたいのは、その後の岩松演劇で繰り返し登場するモチーフの効果について「部屋の中での独特のダンスを踊る」や「階段の使い方」や「切り取られた視界」や「家族の描写、特に末っ子視点」や「カオルが次男をわざと困らせるモーション」や「間宮三兄弟」や「家政婦安藤さんの人物造形」など、いろいろ。思いついたら更新します。
参考
「市ヶ尾の坂」岩松了 而立書房
「劇を隠す:岩松了論」長井和博 勁草書房
M&Oplaysプロデュース「市ヶ尾の坂 -伝説の虹の三兄弟-」2018公式
ステージナタリー:「市ヶ尾の坂」再演が明日開幕、岩松了「場所と時間を感じられる作品に」
SPICE: 岩松了の演出方法に大森南朋、麻生久美子が思わず戦慄!?『市ヶ尾の坂―伝説の虹の三兄弟』インタビュー