「峠の我が家」岩松了
土曜は「峠の我が家」を観劇会の13名で観劇した。
岩松作品ですから、はっきりとは台詞に表現されていない人間関係や感情のもつれが絡まりあっています。逆に普段人が口に出して言わないような言葉を、敢えて台詞で長々と言ったりする妙味もあります。
全編、意味深な台詞のオンパレードです。「われわれは善なるものにすがろうとして結局は悪に加担しているのでは」とか「私が幸せを感じるために世界の戦争は続いているんですか」とか。
あのシーンで、なんであんな行動をとったのか?なんであんなことを言ったのか?観劇後の飲み会では、シーンの振り返りモード、各人の推理モードに突入します。(ミステリーナイトとは違う意味でアフター推理タイムが充実してる)
個人的な感想
「戦争」の話です。「戦争」を政治や経済のようなマクロ視点ではなく、市井の人々の感情、ミクロから浮かび上がらせているのでしょう。物語の冒頭で「兄が戦地でともに戦った戦友の軍服を、弟がその遺族に届けに行く」という話から始まります。この配達は、善人っぽい行動に見えて実はそうじゃないのではないかと登場人物は問い始めます。
兵士の遺族に軍服を届ける。軍服だけを届けられて、癒される家族はいないでしょう。憎しみか哀しみしか生まない。善ではなく悪なのか。この話とどこかでつながっている、印象的なエピソードが劇中にありました。
ヒロインが小学生の頃のことである。下校の道中で複数の仲間にイジメられている。それを帰宅途中に見かけた自分の姉が、妹である自分を助けようとせずに素通りする。そのことで姉は夜中に母親にこっぴどく叱られる。なぜ妹を助けなかったのかと。姉は答える。もしイジメられているのが自分の妹でなく知らない子ならば、私はイジメをやめるように介入しただろう、妹だったから手を出さなかったのだと。
普通の人とは逆をいっているわけです。被害者が赤の他人なら切実ではないけれど、被害者が近親者なら、ほおってはおけなくなり、自分のことのように苦しくなり、やり返したくなる(倍返しじゃなくても同じくらいは返したくなる)のが、生物としての本性的な感情だと思うが、この姉の思想は、おそらくそこに戦争の萌芽がある、と言いたいのかもしれない。一見とっても不思議に思えるが、考えてみると、近親者被害の復讐心を抑え込めずに(やり返してしまったら)、戦争反対、平和維持だと言っても、戦いに取り込まれていく。戦争反対論者ならば、赤の他人の喧嘩には仲裁に入るべきだが、近親者の場合は復讐心が混じるから(混じると端から解釈され、報道され、拡散されるから)、構造的に敵味方の「やり返しループ」に入っていく。
芝居は善悪を問うものではなく、考え続けるもの。そう言えば、岩松さんが以前のインタビュー記事で語っていました。
「峠の我が家」
ところで。仲野太賀の演劇と言えば
仲野太賀を舞台で観るというと、岩松了の作・演出となりますね。観劇会で、岩松了の作演出で太賀が出演したものを観るの6本目。
「国民傘」「シダの群れ 純情巡礼編」「結びの庭」「流山ブルーバード」「二度目の夏」「峠の我が家」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?