ちょっと耳が痛い「劣等コンプレックス」の話し

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 今日はアドラー心理学の劣等コンプレックスの話。

・劣等性
・劣等感
・補償
・劣等コンプレックス
・優越コンプレックス

 などを解説しながら、幸せな人生を生きていく上で大切なことについて一緒に考えていきます。コーチやカウンセラーの方も、そうでない方もどうぞ

劣等感をもたない人はいない

 劣等感とは他人と比較して「劣っていると感じる感覚のこと」です。あなたも何らか感じたことがあると思いますし、感じたことのない人のほうがめずらしいと思います。

 なぜなら人は他者に比べて、めちゃくちゃ劣等している状態で生まれてくるからです。人間の子どもは一人ではほぼ何もできない状態で生まれれてきます。そして何年経っても独り立ちすることができない=大人と同じことができないのです。

 うちの息子殿(4)も「これ大人になったらできるかな?」「いつできるおようになる?」とかきいてきます。また、先日魚釣りにいった際には、釣った魚を僕が捌くのをみて「すごい!大人になったらこんなことできるんだ!!」と言っていました。

 明らかに「お父さんにはできるけど、自分にはできない」という体験があるわけです。当たり前ですね。前向きで何でも「自分でやる!」という息子殿ですが、それでも「やっぱりできない」となることはたくさんありますし、我々大人はそれを軽々とやってしまう。そんな中で「劣等感」=自分は劣っているという感覚を感じることも、もちろんあるわけです。

 劣等感自体は悪いことではありません。劣等感は「自分にだってできるはず」と思っているから感じるのです。他人はできている&自分だってできるはずなのにできてない。だから「くやしい」とか「残念」とか「いやだ」と思うのです。

 面白いことに、劣等感の背景には自己効力感=自分はできる、があるのですね。本来はできるはずの自分が、他人に比べて劣っているように見える。そこに劣等感を感じるのです。もっと言えば、他人は関係ないのです。本来はできるはずの自分ができてない。自分の理想像と現在を比べて感じる感覚が劣等感なのです。だから劣等感は何も問題がありません。理想とのギャップを埋めれば良いだけだからです。

 この秋、息子殿は幼稚園の運動会の練習で悔しい思いをしました。障害物競走の中で、台からのジャンプがあったのですが、失敗して転んでしまったのです。そしてその日から怖くてジャンプができなくなりました。

 友達はどんどんジャンプしていきます。息子殿は思うのです。

「僕だって本当はできるはずなのに、怖い。みんな普通にジャンプしてるのに。。。くやしい」

 これも「劣等感」とも言えます。自分は友達と比べて劣っていると思ったのです。

 息子殿は「運動会の練習のある日は幼稚園に行きたくない」と僕に言いました。理由をたずねると「ジャンプが怖いから」と言うのです。

 僕は息子殿に「どうしたらいいと思う?」とききました。息子殿は「休むと先生に言って欲しい」と言います。

 僕は「自分が休みたいなら、自分で言ってみたらどうでしょう」と提案しました。息子殿は悩んだ上で先生に自分で相談しました。

 先生は「練習は見学してても、先生と手を繋いでジャンプしてみるのでも、自分で選んでいいんだよ」と言ってくれました。

 そして息子殿は先生に手を繋いでもらって、ジャンプの練習をしました。僕は感動していました。自分で相談した上で、見学でもいいと言われたのに、手を繋いでもらってジャンプしたのです。

 本当に怖かったのだと思います。でも恐怖を乗り越えて、「自分はできる」という体験をしたかったのです。そしてさらに幼稚園が終わってから息子殿は近所の公園で、ジャンプの自主練を続けました。低いところから徐々に高さを上げて、克服していったのです。涙ぐましい努力でした。これを「補償」と言います。

勇気をもって「補償」

 補償は劣等感に対する「建設的なアプローチ」です。補償とは、努力することでできる自分になることです。

 息子殿は劣等感を感じた対象「ジャンプ」そのものに対して努力して乗り越えました。これが典型的な劣等感の補償ですが、「ダンスを頑張る」「歌で活躍する」「勉強に努力する」など、ジャンプ以外で結果を出そうとする補償のパターンもあります。

 いずれにしても、劣等感を乗り越えるために努力して自分を変えていくことを「補償」と呼んでいて、それが劣等感への建設的なアプローチ法です。

劣等性と劣等感、劣等コンプレックス

劣等性

劣等感
 建設的アプローチ=補償 ①そのものを
             ②それ以外で
 非建設的アプローチ=①劣等コンプレックス
           ②優越コンプレックス

劣等感に関連する用語

 ちなみに僕は生まれつき舌が短いです。他の子どもに比べ明らかに舌が短く、このままでは発音に問題が出るだろうということで、生まれてすぐに舌小帯(舌の裏側と口の底をつなげているヒダ)の切除をされました。それでも舌が短いことには変わりなく、年齢に比較して滑舌が悪い子ども時代が続きました。

 このような状態を「劣等性(器官劣等性)」と言います。機能的に劣っている状態のことです。劣等性をもっていても、必ずしも劣等感を感じることはありません。僕の例で言えば、親といるときは、彼らは僕の言わんとすることを理解してくれましたし、保育園で友達と遊んでいるときもとくに不自由しなかったからです。

 保育園時代のある日のこと。友達ファミリーと一緒にロッテリアに行きました。友達はカウンターで店員さんに向かって注文をしました。店員さんは彼のお母さんをチラッとみた上で、注文を受けてくれました。僕の番です。僕も自分が食べたいものを伝えましたが、店員さんは首を傾げます。僕はあきらめずに、何度か伝えますが、店員さんは首を傾げたままです。その表情が僕には何か悲しそうに見えました。そのとき後ろから母が「ごめんなさい。◯◯をもらえますか」と言ってくれました。

 でも僕は思ってしまったのです。「僕は、ごめんなさいと言われる子なんだ。僕の言うことは伝わらないんだ」

 これが「劣等感」が生まれた瞬間ですね。自分は劣っていると感じてしまったのです。

 その悲しさの中で、僕は「もうしゃべるまい」と思ったのです。それだけでなく、人前ではなるべく目立たないようにしようと思ったのです。

 こうなると「劣等コンプレックス」です。自分は劣っているという考えを元に「だから行動しない」「何もしないでも許してもらう」「誰かに代わりにやってもらう」「グチや文句を言う」そんな行動をとるようになるのです。これは劣等感への非建設的なアプローチ法の一つです。

 僕の劣等感はさらに強くなります。小学校にあがってみると僕だけ読み書きができなかったのです。自分の名前すら書けなかった。1学期間は苦痛でした。そして夏やすみになっても、僕はちゃんと字が読めませんでした。

 困ったものです。夏休みは学童保育クラブで過ごしていました。字が読めないために宿題ができなかった僕は、一人だけ、指導員の先生に絵本の読み聞かせをしてもらっていました。みじめでにた。

 先生が用事で呼ばれて、僕は1人になりました。何となしに絵本を手に取り、書かれている文字を一文字ずつ声に出して読んでみました。

 すると、何と自分でも本が読めたのです。書かれた物語を理解することができたのです!!!

 ものすごい感動でした。興奮した僕は、「学童保育クラブに置いてある本を全て読む!!」と心に決めました。補償活動の開始です。ずっと悩みだった滑舌の悪さも読書でカバーしてしまおうと思いました。

 3年後には小学生が読む本では飽き足らず、どんどん難しい本にも手を出すようになりました。辞書を引くことを覚えて、知らない単語があることが嫌だった僕は、辞書を読破することを思いつきました。小学校の最後の年には、大人用の辞書が真っ黒&ボロボロになっていました。

 ここまでくると「過補償」と呼ばれます。過剰な補償=やりすぎですね(笑)。その後、滑舌にも取り組み、おかげでメチャクチャ早口になりました。こちらも過補償です(笑)

優越コンプレックスの始まり

 とは言え、相変わらず劣等感まみれでもありました。勉強が得意な同級生には敵わないし、スポーツは壊滅的にダメでした。克服のため少年野球チームに入ったり、バレーボールクラブに入ったりしましたが、圧倒的な運動神経の悪さを見せつけられただけでした。

 そして僕は、本で得た知識をひけらかし、「アイツらは何も知らない」「バカな奴らだ」と見下げ始めたのです。こうなると優越コンプレックスです。

 劣等感を覆い隠すように「自分は出来てる」「自分はイケてる」とアピールするわけです。学生時代には非モテでさらに拗らせた僕は社会人になっても、大学受験模試の全国順位を自慢するようなイタイ仕上がりになっていました。。。。

 優越コンプレックスも涙ぐましいものです。自分に誇るものがないと、嘘をついたり偽装してまで自分を大きく見せることもあります。もしくは「◯◯な知り合いがいる」「◯◯に行ったことがある」「俺の親は◯◯」「先祖は◯◯」「守護霊は◯◯」「前世は◯◯だった」。。。。果てしないですね。

 いわゆるマウントを取ると言うやつです。自分に自信がないイコール劣等感ごあるから、それを覆い隠したくて、マウントを取ることをやめられないのです。

虚栄心は神経症のはじまりである

アルフレッド・アドラー

 等身大の自分を受け入れずに、自分を大きく見せようとすると、病んで行きかねないのです。自分に嘘をついているのですから、幸せに生きづらいのは当然です。

アドラーは

「強く見せようと努力するより、強くなるために努力しよう」とも言います。

 多少の勇気は入りますが、ありたい自分に向かって進む努力をすることで人生の向かう先を変えていきたいのです。

 補償のプロセスには時間もエネルギーも必要です。決して短期間で右肩上がりに変化するわけではないのです。

 だからこそ、それを理解した上で、自分に時間の猶予をあげましょう。3年、5年、10年と行動を重ねたら、だんだん人は変わっていきます。

 僕はコーチングに出会い、コーチとありたい姿を思い描き、そこに向かっての努力を勇気付けられ続けてきました。

 その中で、だんだんと劣等コンプレックスや優越コンプレックスを手放せるようになったのです。


 実は僕は文章を書くのも苦手で、これも劣等コンプレックスになっていました。なんだかんだと理由をつけて、文章を書くことから逃げてきたのです。

 でもこの一年、毎日文章を書くことで、そんな自分からも抜け出しつつあります。

 人は段階的に変わって行くのだなぁと思います。

 周りに「勇気付け」が上手な人にたくさんいてもらうのも大切です。良かったら勇気付けが得意な人たちのいるコミュニティを探して入ってください。

 そして、あなたも周りの人が時間の余裕を持ちながら「なりたい自分」に向かって行動を重ねられるように支援してください。周りの人の成長や努力に着目して、それについてフィードバックしてあげてください

 そんな人たちが増えていけば、劣等感を拗らせて動かない人も、マウントを取り続ける人も救われていくと思います。

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だいじゅ@コーチング脳のつくり方
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