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おいしいご飯が食べたい

私は一人暮らしをしたことがない。
ずっと実家暮らしだ。

 
私は生まれた頃から祖父母、両親、姉と暮らしていて
料理は祖母や母が作っていた。
母はずっと正職員で働いていたし、残業もあったし、仕事柄他県に出張も多かった。
平日は祖母が作ることも多かったし、土曜日の昼食は祖母と食べた(当時、土曜日は学校がある日とない日があった)。

 
祖母は心配性で、私に火や包丁を使わせなかった。
餃子作りの手伝いはよくしていたが
料理への興味が芽生えた小学生の頃に祖母からかたく料理を禁じられた私は
そのまま料理ができない子どもとして育った。
姉もまた、同様だった。

たまに姉や友達とお菓子作りをしたくらいの記憶しかない。

 
祖父母、両親、私や姉と三世代で食べるものは異なる上に兼業農家だった我が家は
祖父母好みの料理(祖母が作ったり、母が用意した)、両親用、私や姉用の料理があり
食卓には常に料理が溢れていた。
冷蔵庫も三つあり、ご飯がないことがなかった。
だからあえて作る必要もなかった。

 
大学生になった頃、たまに料理をするとしても
チャーハンかオムライスを作るくらいだ。
20歳前後の頃、姉と夜更かしをよくしていたが
姉がたまに夜食を作ってくれた。
その時もごく簡単なものだった。

 
姉は24歳の頃、結婚した。
家でほとんど料理をしなかった姉だが、結婚してから毎日違う凝った料理を作っていると写真を見せてくれてビックリした。
レシピ集を見ながら作ったらしいが、あれだけ自宅で料理をしてこなかった姉が、いざ結婚したら料理が上手かったのでビックリした。

 
 
22歳になり、私は初めて彼氏ができた。
だが、遠恋のため料理を作る機会はなく、たまに作ってもお菓子くらいで、食事は基本的に外食だった。

 
やがてその人と別れ、近くの人と付き合うようになってから、ようやく私は料理をたまにするようになった。
好きな人が手料理と手作りお菓子が好きだったからだ。

 
どうやら私は一般の人と比べると、料理欲や料理への探究心が低いらしいと気づいたのは20代になってからだ。

 
私は小さい頃から胃が弱く、あまり食べられなかったり、吐き気に襲われたり、吐いたりしやすかった。
もともと胃が弱い上に、ストレスが胃に影響もしやすかった。

食べ慣れたものを食べることを好み、外食には軽い恐怖心があった。食べ慣れないものをやると胃がやられることもあるからだ。

 
また、当時はたまに料理をすると家族が大袈裟に喜んだり、褒めるのも気恥ずかしかった。

「今日はともかが作ったんだって。」
「おいしいなぁ。」

そう言われるほどに、家族に料理を振る舞うのを躊躇った。

 
朝食はパン派である私は
社会人になってからは
朝は適当にパンを食べ
お昼は給食を食べ(給食が出る職場だった)
夜は母が作った料理を食べた。

昔はバリバリ働いていた母は転職し
以前よりは残業が少なくなっていた。

 
 
私の料理を一番食べたことがあるのは、私の次に彼氏という時代がしばらく続き
やがて私はその人と別れ、フリーになった。
その頃仕事も辞め、転職活動の時期に入ったが
相変わらずそれでも私は大して料理をしなかった。

仕事をしていない私はあまり食欲がなく
バナナやパンや残りものを食べるくらいで
朝ごはんや昼ごはんは十分だった。

 
 
やがて私は転職した。

転職先は週の半分は給食が出る職場だったので
朝はパンを食べ
昼は給食(もしくは買い弁)を食べ
夜は母が作る夕飯を食べた。

 
30代独身彼氏なしの私は
同世代の女性と比べると料理レベルが低かった。

包丁を握ることは年に数回レベルという状態だった。

 
それを心配した姉は、私にもっと料理をするように助言し
私はしぶしぶ、休日のみ夕飯作りを手伝うようになった。
社会人になってからは私が一番帰宅が遅く、残業をして帰ると夕飯ができあがっていた。


30代になってからは、私が自宅で料理をしたくない理由の一つが、実家暮らしだからだった。
母は物が捨てられない人で、三人暮らしの我が家は二つある冷蔵庫も冷凍庫もものがパンパンにつまっていた。
どの食材が悪いかいいか分からないくらい、ものが溢れていた。
冷凍食材もいつのものか分からない。

更に台所もものが溢れ、料理をするスペースも極めて狭かった。
足元にも段ボールに入った食材やらが置いてあった。
母は私より身長が15cm低いから小回りがきくのだろうが、私は狭い台所でやりにくくて仕方なかった。

 
いくら言っても母は片付けないし
勝手に捨てるわけにもいかないし
実家暮らしである以上、台所は母のテリトリーだし
私は口出しはできても手出しはできなかった。

 
 
そんな中、大きな出来事が起きた。
母親が救急搬送され、入院となったのだ。

入院二日目で、もう自力で歩くことは難しいだろうということを本人と家族は思い知らされ
事態は一変した。

 
今まで料理をろくにしなかった私だが、母親の入院二日目にスーパーに寄り、一週間分の食材を買い、料理をした。
母親が入院期間中、ネットを駆使し、毎日違う料理を作ったし、一日に何品も作った。

凝った料理は作れないが、ほとんど買い弁に頼らず、毎日仕事後に料理を作り、休日は作り置きをしたりもした。

 
もう元の体と生活に戻れないと悟った母親は
冷蔵庫や冷凍庫、台所を含み様々なものを片づけていいと言ってくれ
私は古い食材や使わない食材やものをバンバン捨てていき、冷蔵庫や冷凍庫、キッチンは使い勝手がよくなった。

一週間分の献立を考えて自分で買い物をするし、冷蔵庫も整理したため、何の食材があるかもすぐに分かるし
キッチンの使い勝手がよくなったことで意欲は増した。

今までは食器類や鍋が引き出しに引っかかり、とりにくかったが
整理し、そのストレスもなくなった。

 
母親の料理が恋しい、とはならなかった。
もう母親は料理が作れない状態なのは分かっていたし
思いのほか料理は楽しかった。
むしろ、病院食ばかりの母親に色んな料理をふるまいたかった。

 
 
約五ヶ月の入院を経て母親は退院した。
リハビリにより歩けるようにはなったが、ピックアップを使わないと歩けず、更に体調は不安定で、体力も戻らなかった。

リハビリを兼ねて母親は頑張って料理を作ってくれたが
長時間立位が難しく、またピックアップ使用から
凝った料理は作れなくなった。

 
 
母親が退院した頃、職場で給食を作らず、お弁当宅配サービス利用が決まった。
できあいのコロッケ等はまずくはないが特別美味しくもなく
私はハァ、となった。

 
 
朝は適当にパンを食べ
昼は宅配お弁当(週二回は自作お弁当を持参だから満足)
夜は簡易的な料理により
私は食への探究心が強くなった。

 
おいしいものが食べたい。
人(自分)が作ったものが食べたい。

その思いが強くなった。

 
 
母親は病気により役立たずになったという思いは強く
料理を作ることはリハビリであり、存在意義でもあった。
自分で作るのは容易いが、母親の生きる希望やリハビリを奪うわけにはいかない。

 
そこで私は
休日のみ私が作ることにした。

母親は母親で毎日作るのは大変だし、自力で買い物はできなくなり、ササッと買い弁もできなくなったため
週何回か私が作ることは息抜きになるようだ。

 
また、母親はホットプレートやフライパン料理はできるが
私はレンジやフライパン料理が多いため
役割がかぶらず、ちょうどよかった。

 
 
私はみそ汁は好きだが、作るのはあまり好きではない。
母親はみそ汁が好きなため、メイン料理準備はできる範囲だが、みそ汁は頑張ってよく作っている。

 
仕事から帰ってきた時、疲れた体に母親の手作りみそ汁のおいしさやあたたかさが染み渡る。

みそ汁を作って帰りを待っている人がいることも
みそ汁が用意されていることも
とても幸せなことなのだろう。



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