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我が家の運命
お父さんがドラマを見て号泣していたらしい。
「運命の人」というワードに自分を重ね
「お父さんがお母さんに出会ったのは運命だったんだ。」とおいおい泣き
そんなお父さんを見てお母さんももらい泣きをしていた。
そんな両親を見て私は泣かなかった。
結婚する時に、病める時も健やかなる時も誓い合った両親が
結婚して40年以上経っても支え合っていてすごいなぁと思った。
いや、正確には父がすごいなぁと思った。
私の両親の出会いは上司の紹介だった。
母の上司が父を紹介し(その上司と父方親戚が知り合いだった)、出会ったらしい。
初めてのデートで父がおならをしたエピソードは今でも語り継がれている。
母は小柄でかわいい顔立ちで、父は1回目のデートで母を気に入ったらしい。
母は父より仕事が忙しく、恋愛体質ではないため
父が猛アピールした先での結婚だったらしい。
当時は携帯電話がなかったから父は家電にバンバン電話をかけ、仕事が終わると母の仕事先で待ち伏せしたらしい。
熱心というよりストーカーだ。
小学生の頃、母に父のどこが好きか聞いたら「スーツが似合う」「お尻がキュッと引き締まって垂れていない」「公務員」と挙げていたため
母は好きで結婚というよりは
適齢期に自分を好いてくれ、条件がよかったから結婚したのだろう。
結婚したら二人暮らしの予定が色々あり
本家に嫁ぐことになり
結婚式は将来が不安で泣いたと母が話していた。
結婚してからも、明らかに父の方が母を好きだった。
父はお母さんが構ってくれないとよく寂しがり、すねたりもし(思春期になると、そんな父に一途さを感じ、大人になるとウザささえ感じた)
母は軽くあしらっていた。
結婚してからも母の方が仕事に家事に農業に忙しく、ゆっくりくつろぐ母の姿はあまり見たことがないし
小さい頃は祖父母や父が遊んでくれた記憶の方が強い。
私や姉に彼氏ができた時も
私や姉は仕事が忙しく、相手の方が寂しがったりもしたから
血筋なのかもしれない。
年を重ねるごとに、「亭主元気で留守がいい。」状態に母はなったし
私もアラサーになってそれが分かるようになった。
やがて両親は60代になった。
母は平日は会社員として働き、土日は趣味で農作業や庭いじりに夢中になり
父は散歩が趣味だった。
暑い日でも母は平気で農作業をし、父は散歩に行った。
私は30代頃から両親が心配だった。
母は畑で熱中症で倒れて死にそうだったし(畑は家と離れているため、発見が遅れそうな自信がなさあった)
父は散歩中よくひかれはぐっているらしいので、ひかれて死にそうな気がした。
今年、母が脊髄梗塞になり、農作業や庭いじりができない体になり
そんな母の介護で父が散歩に行かなくなり
あの頃数年に渡って心配していたことはもう起きないのだと思った。
予想外の未来だった。
それがいいのか悪いのか分からない。
あれほど、亭主元気で留守がいい状態の母は
病気により心身不調になり、父を求めるようになった。
そばにいてほしいとすがった。
父は仕事を辞め、母のそばにいたし、何らかで外出する時は外出先からもマメに連絡した。
入院中も小まめに見舞いに行っていたし
今まで料理をしない父だったのに
母が退院してから、お母さんに習いながら料理を頑張っている。
母は本来明るい人だったが、退院後泣くことや気弱な発言が増えたが
父はよく「希望を捨てるな。」と励ましていた。
すごいなぁと思った。
ここまで人は尽くせるものなのだろうか。
未婚の私はまだ、そんな運命の人に出会っていないし、この人生で出会えるかも分からない。
父が母を運命の人だと泣いたが
私は私で今年、運命だとよく感じた。
私は大学卒業後から障害福祉の仕事をしている。
だから母が障害者になった時、自分の知識や経験が役に立ったし、母にアドバイスできたり、病院や関係者との面談で切り込んだ質問もできた。
もしも私が障害福祉の仕事をしていなかったら。 もしも私が結婚し、遠くに嫁いでいたら。
今こうして、父と力を合わせて母を支えられなかっただろう。
私が障害福祉の道を選び、独身だったのは
脊髄梗塞になった母を支えられるためだったのかもしれない。
私にとっても母は運命の人だったのかもしれない。
五ヶ月の入院を経た母は毎日リハビリをしている。
これからどのくらい心身回復するかは未知数だけれど
家族で笑う日々が続いていくといいなと思う。