17年ぶりに出した手紙②~舞い戻った手紙~
あれは去年のクリスマスの頃の話だ。
父親がたまたま部屋の片づけをしていたら
かつて私の家庭教師をしていた先生からの手紙が出てきた。
私の推薦大学合格に貢献してくれた家庭教師の先生は二人いて
一人は理系の先生で、もう一人は文系の先生だ。
消印を見ると、私が高校三年生の冬にもらった手紙になる。
だから今から17年前の手紙である。
私が高校一年生の頃、進学校に入学したこともあり
成績はどんどん下がっていった。
背伸びをした高校に入学したら苦労するし
高校生になったら偏差値は5~10は下がると思えと塾講の先生に言われていたが
まさにその通りだった。
小中学校時代、私は上位の成績だった。
そして高校時代、周りの友達も同じ状態だった。
だから高校生になった時、熾烈な戦いになった。
ある程度は勉強はできて当たり前で
私の学力なんて大したことはなかった。
国公立大学を目指していたが
高校一年生の時に私は諦めた。
あまりにもレベルが違う。
私は得意科目と不得意科目で偏差値は20以上違った。
国公立大学はどの科目もバランスよく出来なきゃいけない。
私は国公立大学に不向きで不適切だった。
私は友達の影響もあり、私立大(推薦)合格を目指すことに決めた。
内申さえよければ、(指定校)推薦が狙える。
仮に落ちても、私立大なら三科目受験ができる。
私は高校二年生の一学期の時点で
受験科目を国数英に決めていた。
国語は得意科目だったし
家庭教師(理系)の先生をつけることで、数学と英語の成績は上がった。
入試に立ち向かえるほどの成績になったのだ。
第二志望以下の大学は
判定もAかBだし、一般入試枠の合格はほぼ間違いない。
指定校推薦も狙えた。
だが、私の本命大学はE判定の上
指定校推薦はやっておらず
推薦入試は前年度で7倍の倍率だった。
担任の先生からは失笑され、「記念受験」扱いされたが
私は至って本気で本命大学を狙っていた。
家庭教師(理系)の先生は失笑はしなかったが
内心、私の無謀な挑戦に頭を抱えていたに違いない。
私が高校二年生の秋頃に、家庭教師(理系)の先生から
週一文系の先生に切り替えた方がいいと提案された。
今までは週二回、英語と数学を教わっていたが
これからは週一回、文系の先生に英語と古典・漢文を教わり
週一回は理系の先生に継続で数学を教わったらどうかと言われた。
私も家族も
理系の先生の指導力のお陰で飛躍的に成績は上がったし
信頼もしていたから
先生を変えたくはないのが本音だった。
だが、逆に信頼している先生だったからこそ
「ここから先は文系の先生に文系科目はお任せした方がよい。」
という言葉を信じられたのもある。
信頼している先生の言うとおりにしたら、正解だと思った。
だが、文系の先生はなかなか見つからなかった。
女性の先生と指定した為、なかなか該当者がいなかったらしい。
一ヵ月待たされた挙げ句、「男性ならいるのですが…。」と言われ、妥協して男性の先生にしたら
授業中にずっと汗をかきながらフゥフゥ言っている先生で
声はボソボソしていて
正直怖かった。
その男性は一回来たきりで、三回続けて体調不良で当日ドタキャンし
父親が家庭教師協会に苦情を入れた。
女性の先生を希望したのにいないと言うから
男性の先生で仕方なく受け入れたのに
連続三回ドタキャンとはどういうことだ、と。
個人的には不気味な印象の先生だったので
これきりの縁で助かった。
家庭教師協会は慌てて別の女性の先生を探して見つけた。
その先生は小柄でぽっちゃり体型で、顔立ちはどこか平安風な地味な方だった。
真面目ないい先生だったが、大学卒業を機に半年で家庭教師を辞めることになった。
再び文系の家庭教師の先生探しは難航するのではないかと思われたが
次の先生はあっさり決まった。
その先生がA先生である。
A先生は東北出身の先生で、今までの家庭教師の先生の中で一番「友達感覚」「お姉さん感覚」に近い先生だった。
理系の先生は美人だし、オーラが強く、非常にしっかりした方で
信頼はしていたが、親しみをもって気楽になんでも話せる方ではなかった。
私の中で確固たる「家庭教師の先生」だったのだ。
A先生は下ネタや恋愛話も赤裸々で
おいおい…
先生がそこまで話しちゃっていいの…?
と、私は時に心配するほどだった。
でもだからこそ、私もくだらない話をしやすかった。
A先生との雑談が楽しかったのだ。
理系の先生はハイスペック過ぎた。
だから身近な存在とは私には思えなかった。
理系の先生は私を妹のようにかわいがってくれたらしいが
私にとって理系の先生は理系の先生でしかなく
お姉さん的家庭教師の先生は、A先生だった。
A先生は我が家で伝説になっていた。
毎回、時間ピッタリにチャイムを鳴らすのだ。
1分もズレがなかった。
おそらく、近くのコンビニで時間調整しているのだろう。
明るくくだけた一面があるかと思いきや
時間の正確さは見事としか言えない。
A先生には英語、古典・漢文を教わったが
私が推薦入試を受けることが決まってからは
一ヵ月に20本小論文を書かされた。
様々な大学の過去問から、新聞や時事ネタの要約や自分なりの意見をまとめたりと
様々なジャンルの小論文を、所定時間マイナス5分で書かされた。
当日は緊張するだろうから、5分マイナスくらいで時間は考えた方がいい。
それが先生の教えだった。
私は作文は割と得意な方だったが
小説や物語が好きだったことが裏目に出て
倒置法や詩的な表現を入れがちだった。
A先生は私に小論文のいろはを叩き込んだ。
小論文には倒置法や詩的な表現はいらない。
むしろ、マイナスになる。
私は小論文向きの文章を書けるように矯正され
メキメキと力をつけた。
今の私の文章はA先生あってこそだし
推薦入試は小論文と内申のみで合否判定だったので
合格もA先生のお陰だった。
私の推薦合格が決まり、A先生の家庭教師は終わりを告げた。
両親はA先生に合格のお礼にブランドのポーチをプレゼントし、A先生は親宛に礼状を書いた。
17年ぶりに出てきた手紙は、その礼状であった。
茶封筒の中に、サクラ模様の便箋が二枚入っていた。
親宛のため、私はもらった当時に一度しか読んでおらず
親が保管をしていた。
だから、再び読み返すのは17年ぶりである。
ともかちゃんは私が指導させていただくようになってからも、一貫して一生懸命勉強に励んでくれました。
家庭教師とは名ばかりで、かえってともかちゃんから教わることも多かったと思います。
ともかちゃんはすごく心配していたと思いますが、実は私は結果が出るのをとても楽しみにしていました。
勉強量、論文の進歩、そして何よりともかちゃんの心理学への意欲を知っていたから。
私はともかちゃんの誠実さと内に秘めた熱意にいつも感心していました。
ともかちゃんならどの道を選んだとしても、粘り強く目標を達成できると思いますよ!!
大学には実に様々な人がいて、考えがあって、色々なことを経験する場です。その全てを受け取って、ともかちゃんには楽しんでほしい。
文系の先生らしく、手紙は非常に長く、その一部を抜粋するとこんなことが書かれていた。
今読んでも胸に染みる。
私がどの道を選んでも、目標が達成できると信じてくれている。
そして、どんなことがあっても人生を楽しむように伝えてくれている。
17年経っても
A先生は相変わらずお姉さんみたいな友達みたいな距離で
私にエールを送ってくれている。
胸がいっぱいになり、涙が込み上げた私は
17年ぶりにダメ元で年賀状を書くことにした。
A先生とはこの手紙を受け取った当時、年賀状を一回送り合い
それでやりとりは途絶えた。
東北出身の方だし
当時の住まいは大学付近のアパートだ。
おそらくその後、もう引っ越しを何回かしていて
年賀状は届かないだろう。
なんせ17年だ。
それでも出してみなければ始まらないし、と
私は年賀状を書いた。
絵よりも文字が多く
「いっそ便箋で書けよ!」と自分でセルフつっこみをしてしまうような年賀状だったが
私はポストに投函した。
20パーセント以下の確立だと思った。
多分、年賀状は、届かない。
投函して一週間もしないうちに
年賀状は舞い戻った。
やはりA先生は引っ越しをしていた。
確か二回目の引っ越し分くらいなら転送されるが
なんせ17年前だし
届いた方が奇跡だ。
やっぱり無理だったか…
先生元気かな………
私は青空を見上げた。
この青空の下、どこかにきっとA先生はいる。
今頃結婚して子どもを生んで
きっと幸せに暮らしているだろう。
そうだといい。
A先生、お久しぶりです。
以前、A先生が家庭教師をしていた時に生徒だった真咲です。
大学卒業後、福祉の専門学校に入り、障がい者福祉施設で10年以上働いています。
大学では先生のおっしゃっていたように、様々な発見があり、楽しかったです。
今はコロナ禍で色々ありますが、忙しくも充実した日々を過ごしています。
あの頃、小論文を鍛えていただいたことを活かして、ステイホーム中にエッセイを書き、ネットで公開しています。
たくさんの人に読んでもらえて幸せです。
A先生はお元気ですか?
いかがお過ごしでしょうか?
私はA先生を何度も思い浮かべた。
たった半年の付き合い。
出会いと別れ。
でもあの縁がなかったら、間違いなく今の私はいなかった。
A先生、ありがとうございます。
今年も色々なことがあると思うけど
私は私なりに、頑張ってみます。
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