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【日々の感想文 その6】 「表現の自由」って何だ? 〜表現、マナー、自己顕示欲。はだかポスターやミセスMV炎上から考えてみる。〜

 都知事選ですね。都知事選ですが、裸のポスターを貼る方がいたり、候補者看板を独占する党がでてきたり……国民として何とも恥ずかしいなと感じます。

 少し前「つばさの党」が話題になりましたが、彼らも常々”表現の自由”を掲げていました。しかしながら私には彼らの行動が、それに該当するとは思えませんでした。そもそも「表現」に該当するようには思えません。では「表現の自由」って何でしょうか?

 これから書くことに参考文献的なものがあるわけではありませんので単なる個人の随想に過ぎませんが、真剣に考えてみたいと思います。


1. 表現と自己顕示欲

 裸のポスターに「表現の自由への規制はやめろ」と書いてありましたが、対してXでこんなポストを見かけました。「それはただの自己顕示欲だ」というものです。自己顕示欲、調べてみますと、

自己顕示欲とは、自分以外の周りの人間から認められたいという欲求のことです。 「顕示」とは、はっきりと分かるように示すことで、自己顕示とは自分自身を目立たせるという意味のことを指します。 つまり、自分自身を目立たせることで周りの人から注目されたり、褒められたりしたいということをいうのです。

あしたの人事オンライン(https://www.ashita-team.com/jinji-online/) より

 要するに自分の考えを示し、認められ、同胞を増やし、褒め讃えらたい、ということでしょうか。それだけのために選挙を利用されてはいささか迷惑ではありますが、当人は本気で、公然に裸が認められる社会に変えたいと思っているのでしょう。

 ですが問題点、これは「表現」なのか?

 上記ポストには続けて「子どもも通るんだぞ」というような内容の記載がありました。個人的にはここがポイントになってくるのではないかと思います。

2. 自己顕示欲 × マナー = 表現 〜ミセスMV問題から考える〜

 表現には常々「マナー」が付き纏います(と思っています)。例えばこれも先日炎上したMrs. GREEN APPLE(以下、ミセス)の『コロンブス』のMV。ポストコロニアルな思想が付き纏う大きな問題でした。個人的にも「良くない」と思います。しかしながら、例えばインディーズ界隈のパンクスの世界や、“ディスる”なんて言いますがヒップホップの界隈などでは、際どい表現が多々見受けられます。
〜とはいえ被支配階級側からの口撃が殆どと言えます。〜

 なぜ今回彼らのMVは許されなかったのかというのは、支配の歴史や思想的な観点が根源ではありますが、「ポップスだったから」とも言えます。もちろん大人気で、コカ・コーラも絡んだものだったし、大炎上しましたが、今回のMVはポップスのマナーを超えてしまったのだと思います。

 彼らはフロンティアの歴史は支配の歴史であること、多分それを実直に表したかったのだと思います。ですがマナーを超えてしまったのです。

 と考えると「表現」は常々「自己顕示欲」と「マナー」の掛け(あるいは混ぜ)合わせで成り立っています。そしてこのマナー(パーソナルスペースへの踏込への配慮)は場所や認知度によって大きく変わってきます。

3. マナーとは 〜パーソナルスペースへの踏込みへの配慮〜

 ここで「マナー」について挟みます。一般的には「行儀作法」のことですが、それは態度の話です。そもそも何故その作法が必要なのか、それは「パーソナルスペースに踏み込まれすぎると人は嫌悪・不信感を抱く」からではないでしょうか?

 ミセスの件でいえば、被支配側のネイティブ・アメリカンのパーソナルスペースへ踏込み、しかも類人猿で表するなどで差別を助長してしまった。また、それをポピュラーの域で公に大々的に晒してしまった故の炎上と言えるでしょう。

 マナーの許容範囲は場所により変化します。タメ口が許される接客業もあれば、敬語から文法までを徹底される接客業もあります。失礼が売りのアイドルがあれば、丁寧な対応が売りのアイドルがあります。つまり、場所が場所なら火の着き方も少し変わっていたかもしれません。彼らはポピュラーであり人気者、それだけあらゆる人々のパーソナルスペースに存在し続けているのです。

4. 表現の自由 〜自由と民度を考える〜

 知事選の話に戻りましょう。裸ポスターの彼女は社会のマナーを破り公然に裸体を晒すことを表現と呼んでいますが、私の考えでは、上記の通り「表現」には当たりません。「表現」とは良くも悪くも「マナー」と掛け(混ぜ)合わさって成り立っているものです。
〜ミセスだって「表現」と認めてもらえなかったのです。〜

 我々が裸族でない以上、選挙ポスターに裸を使用し晒すことは、通行人のパーソナルスペースへの配慮に欠けます。ただし「表現」と「自己顕示欲」これを明確に線引きをするのはまた難しい話です。

 度々になりますがマナーは場所によって姿を変化させます。なので許されるところでは許されますし、何なら許される場所があってこそ「表現の自由」は確立されます。そしてこの「許される場所」の拡大を目論んだ時、政治活動は大きな意味を持ちます。また、マナー違反として言論が統制されてしまっては自由も民主主義も確立しません。エミール・デュルケームいわく「自由契約には自由契約以前的な前提(=契約遵守への信頼)が必要」なんだそうです(宮台真司のポストを参考)。

 結局のところそれが表現に値するか否かは「空気感」によります。しかし「空気感」を作り出すものは「自由契約以前的な前提(=契約遵守への信頼)」、つまりは基礎的な教養であり、嫌いな言葉ですが「民度」です。一定水準には高い民度を保っていないとこの前提が崩れてきてしまいます。まさに昨今の崩れ具合は「崩壊」の域かと思います。
〜ただし私は十把一絡げにこの「崩壊」が悪いとは言い切れません。〜

 「表現の自由」の許容は、①自己顕示欲にマナーを掛け(混ぜ)合わせ組み立てられた「表現」と、②一定水準に高く保たれた、基礎教養ある民度を前提に思考された「自由」(場所による)とのバランスによって、範囲が決まってきます。ただ単簡に訴えば許されるような、そんな利便性の高い文言ではないのです。

 「節度を保つ」ことの難しさを感じます。

おわり

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