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「1の反対は0ではなく、-1」

理論物理学者であられる佐治晴夫先生とは、2011年3月5日に、三重県・志摩のホテルで初めてお会いさせて頂いた。
何をされてるのかと聞かれたので、和菓子のカフェだと言ったところ、即座に、
「先日、『和菓子と数学』というテーマで講義したんですよ」。
と、仰って、簡単にその内容を教えて下さったのだが、あまりの面白さに一気に引き込まれたのをよく覚えている。
そして先生は、
「皆さんは、国語が情緒で、数学が論理だと思われているかもしれませんが、実はそうではないんですね。国語の行き着く先が論理で、数学の行き着く先が情緒なんです。お互いがクロスするんですね。故に文理は不可分であり、よって私はリベラル・アーツを推奨しています」。
と、仰った。
文理に乖離のあり過ぎる私には、衝撃的な話だった。

私は、数学が苦手だった、というか、算数時代から捨てていたので、全く勉強をしていない。算数の授業中は、江戸川乱歩の小説を読んでいた。よって、高校時代の全国模試では、偏差値30台だった(但し、国語は偏差値80台で、上位1桁をキープしていたが)。

そんな私が、である。
以下を書くにあたり、

数学的要素を含んだ問題について少々考えていて、その上で疑問が生じたので、その道のプロに問い合わせてみたところ…が、以下のやり取りである。
敢えて恥を晒してみる。



佐治晴夫 先生

ご無沙汰しております。

ちょっと先生のご見解をお聞かせ頂きたく、メールにてお問い合わせ致します。

かつて、みうらじゅん氏が、「1の反対は0ではなく、-1」と書かれていて、なるほどと思ったんですが、これを仏教用語に当て嵌めるとすると、
・1=有
・0=無
・-1=空
となるのではないかと思い、数人の僧侶の方に問いましたところ、皆さん、それで問題ないかと思います、とのことでした。

その一方で最近、「0」という数字について考えていたんですが、「0」とは、何も無い、ということを表しつつ、「0」という数字が「1」個存在していることも表しているのではないかと。要は同時に2つの意味を有している、と思った訳です。
その場合、「0」自身が、無と空を内包している、とも解釈できるのではないかと。
これについては、僧侶の方に確認をしていません。

先生は、いずれの解釈がより適しているとお考えになられますでしょうか?

お手隙にでもお教え頂ければ有り難いです。

よろしくお願い致します。

森田大剛



森田 様

たまたま、2014年の清水寺を思い出していたところで、びっくりしました。
*私主催のイベントにご出演頂いた時のことを指されている

まず、数学の定義と仏教での考え方をそのまま対応させると混乱の元になります。

1)1の反対は、-1、これは1次元数直線において、0を起点としたときの対称点という意味では反対だといえます。

2)1,0,-1を有、無、空にあてはめるのは、かなり無理があり、間違いといった方がいいかもしれません。ただ、妄想をすすめて、物理学でいう真空、そこに空いた穴として存在する反世界(ディラックの電子)のように考えれば、解釈可能ではありますが、そうすると、1,0,-1という数学の規則が破綻してしまい、なおかつ、物理学における対称性の概念と矛盾しますから、結果として間違いになります。

3)数学での0とは、何もないのではなく、0というものがある、ということです。あえて仏教的にいえば、「花がない」を「ない花がある」と言い換えることに相当します。あるいは、「お金がない」を「ないお金を持っている : I have no money」の状況です。「その状態がある」を含んだ意味での「ない」です。

4)空の言語、sunyata からいえば、それは、有も無も同時に包括している状況をいい、したがって、空、といえば、「すべて」、しかも、「それ」以外の外側をもたない「すべて」を意味します。それは2次元球面世界に住む人間にとって、2次元球面の表面そのものが世界のすべてであり、表面の高さ方向、すなわち3次元の認識ができないわけですから、その球面上には、始点もなく、終点もなく、したがって、空間の端というものが存在せず、無限世界そのもののすべてになります。空のイメージです。

5)さらにいえば、空とは、言語的にいえば、区別できない状況をいいます。したがって、どうしても数字であらわそうとすれば、「非有限極限アレフ」のように考えることができるでしょう。

およそ以上ですが、以前、高野山大学、花園大学密教学科で講義したときの資料に書いたと思いますので、探してみますが、北海道のアトリエかもしれません。あるいは、拙著「マンガで読む14歳のための現代物理学と般若心経(春秋社2021)」や88冊目の「続・宇宙のカケラ~物理学者の詩的人生案内(毎日新聞出版2023)」にも、解説してあります。

佐治晴夫



速攻の返事の上、内容がガチ過ぎてビビった…。
問う相手を間違えた。いや、正しかったのだが、正し過ぎて、私には理解が及ばなさ過ぎる…。
「非有限極限アレフ」てなんじゃい???

そんな先生から、以下の追伸を頂いた。



森田 様

空につきましては、ピンと来なくて当然です。永平寺でお話しした時にも、修行中のお坊さんでさえ四苦八苦していました。もちろん、私も同様ですが、数学や論理学や、禅問答を通して、なんとなく感じる程度です。坐禅や気功を通してふっと感じることもあるようです。
アインシュタインも関心を持っていて、「現代物理学に足りないものを補う宗教があるとすれば仏教だ」と言っていますね。

また数学的0については、『零の発見(吉田洋一)』がおすすめです。来年、90冊目の本にかかりますが、その中でも0について、触れてみたいと思います。今回の森田さんからのご質問を受け、私なりに書いておきたいと思いついた次第です。
1÷0, 0÷0などを含めての話です。それと、道元の「正法眼蔵」の時間論と現代物理学など…。

何か、ご質問があれば、いつでもメール下さい。
できるかぎり対応させて頂きます。それが年寄りの務めかと…。

佐治晴夫



算数的にアホな私が抱いていた、0に対する誤解が、先生のお役に立ったようである。
1÷0を計算機で打つと、エラーと表示された。そんな表示がされるのを初めて目にした。
「正法眼蔵」の時間論て。無茶苦茶面白そうな着目で、今から読ませてもらうのが楽しみである。

先生は、今年で90歳だが、まだまだご達者そうで、何よりだと思っている。
私が何歳まで生きるのかはわからないが、私も年寄りになった時、先生と同じように言える自分でありたいと願う。



しかし、私って大概しつこいようだ。
「0」が何も無いという意味ではないのであれば、何も無い、とはどういう状態なのか、そもそも無とは何なのか…?と思ったので、更に佐治先生にぶつけてみたところ、その返信が以下。



森田 様

一般的に「無」と訳されているものの原語は、サンスクリット語でのsunyata、あるいはバーリ語のsunyaで般若心経にかかれている言葉そのものです。

先ず、何もない、とは、何もなくない、何かとの比較において、何もない、と言っているのです。
つまり、「ある」とは、「あると認識する」ことで、認識するとは、今まで認識していなかった時とは異なった状態になるという意味で、区別するということです。そのように定義すれば、「無」とは「なにものも区別され得ない状態」ということになります。坐禅による深い瞑想で体験できます。
ここでは、脳科学的説明は省きます。このあたりの論理がプロのお坊さんたちも理解できていない場合が多いです。
区別され得ない状態とは、有も無も包括されていて、区別がないという状態だということになります。AであってAでない、AであってAでないものでもない。それゆえ、宇宙と一体化してしまうということでしょう。
一体化してしまえば、宇宙の内側、宇宙の外側などという概念がなくなります。

おおよそ以上です。いかがでしょうか。

佐治晴夫



私は、?となった。以前頂いた空の説明と重複しているではないか…。
なので、サンスクリット語のsunyataとは、空とも無とも訳せる、という認識で大丈夫でしょうか?と、更に問うてみたところ、その返信が以下。



森田 様

もともとの原語sunyata の梵語訳が、「空」、その漢訳が「無」、したがってニュアンスは異なるが、基本的には同じです。
更に敢えて日本語的にいえば、思慮分別を超えた心の状態を「無」、一方、ナーガルジュナの大乗仏教の根本教理を「空」、という場合も多いです。

佐治晴夫



ものすごくスッキリした!
私は、空と無を別物と捉えていた訳である。
だって、どう見ても、漢字的には、空は空であり、無は無だもの。
ただ、空も無も、その対義語は有であって、その時点で気付くべきだった、と気付いたのだが。

で、そもそも私は何を知りたかったんだっけ…?
仏教的概念として、空と無が同義であるのなら、私の抱いていた疑問そのものが成立していなかった訳で、疑問自体が消失したってことか。
うん、最早、空でも無でもどちらでもいいのだが、私の中で感覚でしかなかったものが、先生の数学的観点と言語化によって、根拠のあるものとなったので、その意味は非常に大きい。

佐治先生って一体、何種類の言語を理解出来るんだろうか…。
それにしても優し過ぎるやろ。
私が図々しいだけか。

兎にも角にも、有り難い限りである。

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