「社会」の恐ろしさ
映画『怪物』や、芸能人の自殺や、自身について考えたこと。
芸能人の自殺、たまにニュースになり世の中を震撼させる。
SNSでの行き過ぎた誹謗中傷が彼/彼女を追い詰めた、とされる。
果たして本当にそうなのだろうか。
「自殺」とは悪いことなのだろうか。ダメなことなのだろうか。
私は、自殺はしてはいけないことだとは思わない。
彼/彼女にとって「死」とは最後の救いだったのだ。
苦しみから逃れるための、唯一の手段だったのだ。
私自身も、本当にもう死ぬしかないのだな、と追い詰められた経験がある。
だからわかる。
人はその状態に陥った時、もう本当に「死ぬ」しかないと、それ以外のことは何もわからなくなるものだ。
生きることそれ自体、「生」が必ずしも正しく、美しいことだとは思わない。
だから「死」、とりわけ自殺も、悪いことだとは思わない。
その人にとって「死」が美しく思えたのかもしれない。
だから私はそれを否定したくはない。
「社会」
我々人間は少なくとも国家や社会に統治されている。
人間は「社会」の領域の中に存在している。それがなければ生きていけない。
長い歴史の中で、人間集団は国家に統治されることで秩序が保たれ平和に生きていける、とされたのだ。
「社会」の領域の中に存在しているということは、ある程度の規範が存在する。
法を犯さなければ犯罪でなはい。
法を犯してもバレなければ犯罪でなはい。
社会集団や、個人に備わる倫理や道徳も、規範と言えるだろう。
ここではとりわけ倫理や道徳に限って語りたい。
マジョリティが当たり前に受け取っている「社会(倫理、道徳)」から大きく外れてしまうと、批判される。
特に世間的に立場が大きい人は批判の対象になりやすい。
マジョリティがいう「社会」の「普通」から大きく外れてないけないのだと思う。
特に私のようなメンタルの弱い人は。
「社会」から大きく外れると、自身の実存に苦悩することになる。
強靭なメンタルを持ち、それだけ社会から批判されようとも自分が良ければそれで良いのだけれど、そのようなアイデンティティも「社会」の前では簡単に崩れ去ってしまうのだと思う。
そのような時に人は死ぬしかなくなってしまう。
自分の存在を「社会」から消え去る以外に苦しさから解放される道はない。
そうなったら死ぬしかない。
精神的に狂って、それでも死ねなかったら病院に行くしかないのだが、それもそれで「社会」からすれば異常者だと見られる。
しかも、精神的な病気判定を下されなかったらただの正常者だ。
「社会」からすれば。
自分はこんなにも苦しいのに、悩んでいるのに、誰からも理解されない。
ただ逃げている、甘えている人だと思われるだけだ、社会的マジョリティからすれば。
だから「社会」は恐ろしい。
どれだけ追い詰められていても、どれだけ苦しくても、誰も理解などしてくれない。
人はそこまで他人に興味がない。
死んでから、死んでみてからやっと、SNSで友達としてのお気持ち表明。
しょうもない。
誰も他人のことなど救えないのだ。
死ぬ前に話してよ、頼ってよ。
お前に話したら何かが変わるのか?助けてくれるのか?
無理だろうそんなこと。
自分は自分でしかないし、他人は他人でしかない。
本当の意味で救ってくれる人などどこにもいない。
だから死んでも仕方がない。
人間が人間である故。
人間が社会の中に存在しているという事実故。
だから「死」(とりわけ自殺)は悲しいことだとは思うが悪いことだとは思わない。
自分にできるのは、自分を自殺まで追い込まない具合に「社会」にしがみつき続けることだけだ。自分を守るために。周りの愛する人を悲しませないために。
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