【掌編小説】ひとひらの秋
秋の午後、陽は傾き、空気が少し冷たさを帯びるころ、村外れの川辺は黄金色の光に包まれる。その川辺にひっそりと、薄紅色の花を付けた萩が、風にそよぎながら川面に儚げな影を落としていた。その影のすぐそば、一匹の猫が静かに座っている。
猫は年老いていた。耳の先が少し欠け、毛並みは艶を失い、瞳にはどこか遠くを見つめるような深い静けさが宿っている。少年が気づいたのは偶然だった。
「君、おじいさんみたいな顔だね」
少年は笑い、萩の枝をひょいと手に取ると、猫の前足をくすぐるようにつついた。猫は顔をそむけ、少しだけ迷惑そうな表情を浮かべたが、やがて大きなあくびをひとつして、再び川の流れに目を向けた。その無関心な態度に、少年は妙な親しみを感じた。
それから少年は、学校帰りにその川辺に通うようになった。夕焼け色の空の下、猫の隣に座り込んでは、学校のことや家のこと、日常のささいな出来事を語りかける。猫はほとんど動かず、ただ川面を見つめていたが、不思議と少年には分かっていた。この猫はきっと自分の言葉を聞いてくれている、と。
「今日、絵を褒められたよ」
「僕、来年はもっと背が伸びるかな」
「いつもお母さん、帰りが遅いんだ……」
少年の言葉に猫はたまに「にゃあ」と短く鳴く。その声に答えるように、少年は微笑む。それはまるで風がそっと木々を揺らすような、ささやかな対話だった。
ある日、少年が川辺を訪れると、萩の花はほとんど散り果てていた。淡い薄紅色の残り香は、どこか秋風に溶け込んで消えたようだった。猫は相変わらずそこにいたが、その佇まいには、何か静かな終わりを予感させるものがあった。
「今日は、寒いね」
少年は言葉をこぼし、ポケットから取り出した小さな手袋を猫の前に置いた。猫はそれをじっと見つめるだけで触れることはなかった。ただ、細めたその目にはどこか穏やかな光が宿っているように見えた。
次に訪れたとき、猫はいなかった。裸になった萩の枝が風に揺れ、そのかすかな音が、少年の耳には猫の囁きのように聞こえた。
「どこに行ったんだろう……」
少年は川辺に立ち尽くし、小さな石を一つ拾い上げて川へ投げた。波紋が広がり、やがて消える様子を見つめるうちに、彼の心には静かな理解が生まれていた。それでも、少年は何か温かいものを感じた。猫の目に映っていたのは、ただの川の流れではなく、この一瞬の光や風や、季節のきらめきそのものだったのだと気づいたからだ。
その後、少年は何度か川辺を訪れたが、猫を見ることはなかった。
それから幾度目かの秋が訪れた頃、少年は再びその川辺に戻ってきた。背が伸び、かつての少年の面影を残しつつも、どこか大人びた顔つきになっていた。萩はまた新たな枝を伸ばし、小さな蕾をつけていた。少年はしゃがみ込み、その柔らかな枝先にそっと触れる。
「また来たよ」
そう呟いた声は以前より少し低く響いた。すると風が吹き、萩が揺れた。その音はあの猫が短く「にゃあ」と鳴いた声に似ていた。少年はふっと微笑む。
「あれから色んな事があったんだ……」
萩は風に揺れ続けていた。
少年は川面を見つめ、しばらくじっとしていた。
猫のいない時間は、けれど密やかに語り続ける。少年と猫が分け合った、あの短くも豊かな時間を。
日が傾き、辺りが薄暗くなってきた頃、少年は立ち上がった。
「また来るよ」
少年は微笑むと、手を振り、川辺を後にした。背後で、萩の枝が何度も揺れ、少年を見送るように静かに囁いていた。