ブルースの人間性や取材対象へのスタンスに加え、誤訳(校正ミス)も含め気になる部分があるが、それでもブルースも本書も魅力的だ―『ブルース・チャトウィン』(ニコラス・シェイクスピア/角川書店)
何よりも最初に、まだこの本を購入していないのなら、電子書籍版をお薦めする。表紙がソフトで紙も軽めのものを使っているようだが、解説などを含め900ページ弱。それなりに重いし、厚みもあるので、電子書籍が読みやすい(私は両方買ったが、読んだのは電子書籍)。
原著は1999年の刊行で、私が本書について知ったのは、新潮社が出していた季刊誌『考える人』2011年冬号「特集 紀行文学を読もう」でのこと。同書のレビューにも、翻訳して欲しい旨を書いていたが、実現して何よりもうれしかった。
内容そのものは面白い。冒頭部分はややとっつきにくい部分もあったが、ブルースがサザビーズに入社したあたりから、彼の個性が発揮され、どんどん面白くなってきた。登場してくるのも、それなりの個性を持った人士たちで、一癖二癖で収まらない人物も多い。特別な訓練を受けていないブルースの鑑定能力や文書をものにする力には驚かされる。その後のジャーナリストへの転身や放浪の日々、さらには『パタゴニアへの旅』(『パタゴニア』と書かれているところもある。邦訳も『パタゴニア』)以降の執筆についても興味深い話が多い。取材対象へのスタンスや人間性の微妙な部分、バイセクシャルであったことなどにも触れられ、ブルースの全体像に迫っている。
そして、作家として成功するとさらに様々な人物が登場する。ソンタグ、ナイポール、メイプルソープなど。読んでいて楽しくて仕方がない。
私はペーパーバック版の原著を持っているが、そこに掲載されている写真がすべて収録されている。480ページのジェイムズ・アイヴォリーによるブルースの写真などは感涙ものだ。
『パタゴニア』は本書を読むと、世界中で売れたようだが、最初の邦訳は1990年と以外に時間が経過しているものの、現在は共著を含む7冊の著書全てが邦訳されている(ただし、古書のみの入手になっているものもある)。
ただ、邦訳には問題がないわけではない。原文の文体のせいなのかもしれないが、やや生硬に感じる部分がある。また、註がほとんどないため、戦後のイギリスやイギリス文学を相当読んでいないと、この人は誰? と感じる人も少なくない気がする。意味不明の誤訳というか校正ミスがある。350ページに「ロバート・バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』とあるが、ジョージ・ゴードン・バイロンが正しい。原著を見る限り「チャイルド・ハロルド風」もしくは「チャイルド・ハロルドのような」と訳すような文章なので、「Childe Harold」とあるだけでバイロンの名はない。訳者が日本人読者向けにわざわざバイロンの名を入れたようだが、ブルースの愛読書『オクシアーナへの道』の著者ロバート・バイロンに引きずられてしまったようだ。オシップ・マンデリシュタームの著書として『アメリカへの旅』が出てくるが、こちらも『アルメニアへの旅』が正しい(原著では『Journey to Armenia』)。単なる誤植ではなく、同書は5回登場するがそのすべてが『アメリカへの旅』となっている。ほかにもあるかもしれない。
ブルース・チャトウィンの読者がそれなりにいることは分かるが、彼の評伝にまで手を伸ばすほど熱心な読者がそれほどいるとは思えないし、伝記文学愛好者についても似たようなものだろう。そういった中で、この大部の本が邦訳されたことは壮挙だし、英語を自由に読めない私にとっては極めてありがたいことだ。それだけに上に書いたようなことが残念でならない。もし、増刷することがあったら必ず訂正して欲しい。