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【読書記録】ローマ人の物語ⅩⅢ 最後の努力 / 塩野七生

塩野七生先生の「ローマ人の物語ⅩⅢ 最後の努力」を読み終えたので記録を残します。


要約

シリーズ13作目となる本著では、3世紀後半から4世紀のローマ帝国を描きます。

3世紀前半のローマは度重なる蛮族の侵入やペルシアからの攻撃、疫病や災害に悩まされました。
軍事的な緊急度が高まったこともあり、この時代は軍人が皇帝に成り上がります。

ディオクレティアヌス

短命の連続だった軍人皇帝時代に終わりを告げたのはディオクレティアヌスでした。
この人の治世は21年に及びました。
しかもローマ皇帝で初めて引退を行った人でした。

この皇帝が導入したのは「二頭政」、そして「四頭政」でした。
これは広大なローマ帝国を分割し、複数人の皇帝が各自の担当領域において軍事活動を行うというものです。
共同皇帝であればマルクス・アウレリウスが導入した前例がありましたが、このような分割統治は初めてでした。

四頭政といっても4人の皇帝が平等な地位というわけではありません。
以下のような順位になっていました。
東方の正帝:ディオクレティアヌス
西方の正帝:マクシミアヌス
東方の副帝:ガレリウス
西方の副帝:コンスタンティウス・クロルス

この統治は防衛という面においては成功でした。
軍事において申し分のない人材が揃い、各自の担当領域にて多大な裁量を持って対応することができたのです。

しかし兵士の増大という副作用が伴いました。
また、ディオクレティアヌスは各皇帝の下に官僚組織を置き、その下に日本の「県」に該当するような行政区を設定しました。
これらの実施により、公務員が飛躍的に増加しました。
そしてその国費を賄うために増税が行われることになります。

キリスト教の大弾圧

ディオクレティアヌスはキリスト教の大弾圧を行いました。
その規模は未だかつてないものでした。
なぜ彼がここまで徹底した弾圧を実施したのかは定かではありません。

ただ、

  • キリスト教徒はローマを「堕落した帝国」と捉え、その滅亡を望んでいたこと

  • それゆえに彼らは、ローマ市民が当然の義務と考えていた公務を放棄していたこと

  • 国の重要な祭儀への参加拒否、ないしは祭儀中に十字を切るという相応しくない行動を取ること

といったことから、為政者に嫌われやすい側面がありました。

皇帝の中世化

我々日本人が「王様」と聞いて思い浮かべるのは、真紅のマントを羽織り、金色に輝く王冠を被っている姿だと思います。

しかし、元々ローマ皇帝はこのような格好をしていませんでした。
あくまで市民の代表ということで、他の元老院議員と変わらない格好をしていました。

ディオクレティアヌスはこの慣習を終わらせます。
我々が思い描くステレオタイプの王様像に近い格好をし始めます。
これには派手好きとか見栄っ張りというわけではない、重要な理由がありました。

3世紀は新たな皇帝が生まれては殺害される時代でした。
皇帝は終身職であり、不信任を突きつけるには殺害しかなかったのです。
しかし短命政権は政治が不安定になるというデメリットが伴います。

ディオクレティアヌスは政治の安定化を図るために、一般市民からは遠い存在としての皇帝像を作り上げ、「殺害するなんて畏れ多い!」という風潮を作り上げたのです。

ディオクレティアヌスの引退後

ディオクレティアヌスはひとしきりの仕事をし終えると引退しました。
その後に待つのは、皇帝位をめぐる争いでした。
四頭政は長続きせず、内乱を経てコンスタンティヌスとリキニウスという二人の皇帝が並び立ちました。

ミラノ勅令

コンスタンティヌスとリキニウスの両皇帝により、ミラノ勅令が発せられました。
これはキリスト教をはじめ、すべての信教を完璧に認めるというものです。
ディオクレティアヌス時代の弾圧とは180度転換した勅令となります。

コンスタンティヌス

結局その後、唯一の皇帝位を巡りコンスタンティヌスとリキニウスは争うことになります。
勝者はコンスタンティヌスでした。

コンスタンティヌスは当時のビザンティウム(現在のイスタンブール)に、自身の名を冠したコンスタンティノポリスという新たな首都を建設します。
この地には首都機能となる建造物をすべて揃えましたが、ローマの多神教にまつわる神殿は建てませんでした。
キリスト教の振興を目的としていたことが理由と考えられています。

コンスタンティヌスとキリスト教

彼はキリスト教の振興に尽力しました。
先述のミラノ勅令もその一つでしたが、それだけではありません。
聖職者の納税を免除し、役人や軍人になる義務から免除しました。
また皇帝の私財をキリスト教会に寄進しました。
ニケーア公会議では、アリウス派とアタナシウス派という意見の異なる両派の司教を集め、どちらの説が正統かを裁定しました。
教義解釈の異なりによる分裂を防ぐためと考えられています。

ではなぜキリスト教をここまで優遇したのでしょうか?

塩野先生は「支配の道具」として活用したのではないかと考察しておられます。

ローマ帝国の皇帝の正統性は元々、血統により担保されていました。
しかしそれでは暴君も誕生するし、男児が生まれないという事情もあるわけで、その場合は有能な人物をトップにしたいという思いが生まれます。
そこで、血縁はないけど養子にした上で継ぐという手法が取られるようになります。
この時点で正統性というものが形骸化していることが分かります。

そして3世紀の軍人皇帝時代では正統性なんて悠長なことを言っている場合ではなく、実力主義により皇帝に成り上がるようになります。

先にも述べた通り、それでは一皇帝の治世が長続きせず、政治も安定しません。
ディオクレティアヌスは皇帝を崇高な存在にすることで解決を図りましたが、コンスタンティヌスはさらにその一歩先に行きます。

つまり、皇帝位は神が授けたものとしたのです。
「神が授けた皇帝という存在なのだから、お前ら敬え」
というわけです。

しかし神は不可知の存在であり、実際に皇帝に戴冠することはできません。
そこで司教という存在が重要になります。
司教が神に代わって皇帝に戴冠するということで、理屈が通るわけです。

コンスタンティヌスはここに目を付け、キリスト教の振興を図ったのではないかというのが塩野先生のお考えです。

感想

ローマ帝国にかつての姿はなく、もはや中世と言える時代に突入しました。
それまでは新興宗教でしかなかったキリスト教が、世界三大宗教となる一歩を踏み出します。
この時代からは文献の記述者がキリスト教徒になるため、視点も偏ることになります。
塩野先生はその点を踏まえ、また非キリスト教徒として合理的な視点で歴史を捉えようとされています。
その考察がなんとも興味深く、痛快だったりします。

残る2作も楽しみです。

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