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【追悼】 木下万暁さんがNPOの世界にしてくれたこと

これまでの職業人生でご縁を頂いた方の中でも、僕がもっとも圧倒的な凄みを感じたのは間違いなく木下万暁(きのした・まんぎょう)さんだ。2023年7月9日、その万暁さんが46歳の若さで、膵臓癌との闘病の末に帰らぬ人となった。

万暁さんの弁護士としてのご経歴やお人柄については、サウスゲイト法律事務所がつくられた素晴らしい追悼ページをご覧頂きたい。彼がどれだけの人物であったのかは、このページの文章から温かさとともに伝わってくる。

ただ、NPOの世界で生きる者として、彼の功績は弁護士としての本業の領域にとどまらなかったことをぜひ伝えたい。万暁さんは、プロフェッショナルが持つ専門スキルを生かしてNPOに貢献する”プロボノ”の活動を、法曹界を中心とした日本のビジネス界に根付かせることに大きく貢献した人物だ。

万暁さんは、SVP東京BLP-Networkといったプロボノ専門機関での活動を通じてプロボノ案件を生み出すことに深くコミットした。また、当時所属していた弁護士事務所では、若手弁護士がプロボノにかかわることを奨励する制度まで作り上げてしまった。

万暁さんに憧れて、あるいは、万暁さんがつくった仕組みに後押しされて、多くの人がプロボノとしてNPOの世界に足を踏み入れることとなった。僕の周囲にも「実は万暁さんがきっかけで…」と口にする人は数知れない。

また、万暁さん個人としても、僕が知るだけでも10以上のNPOや社会的企業に対し、自らがプロボノとして多大なる貢献をしていた。そして幸運にも、僕が経営するNPO法人クロスフィールズは、万暁さんに特にお世話になった団体の1つだ。

万暁さんがNPOの世界にどのように貢献されていたのかを少しでも知って頂くためにも、身勝手かもしれないが、万暁さんがクロスフィールズにどうかかわってくださっていたかを、自分の一人称の経験談としてお伝えしたい。


僕が万暁さんにはじめて出会ったのは、創業間もない2011年の秋頃だった。当時SVP東京の活動にかかわり始めていた万暁さんは、選考会でのプレゼンを終えた僕のところに駆け寄ってきて、名刺交換をしながらこう言った。

「ビジョンと構想に共感しました。ぜひ全力で応援させてください」

僕はこの言葉を、よくある社交辞令的な言葉として受け取った。でも、実際に団体のサポートに入ってもらった最初の数ヶ月で、「全力で応援」という言葉が万暁さんにとってなんの社交辞令でもなかったことを僕は思い知る。

万暁さんは、起業したてで右も左も分からなかった僕たちからの稚拙な問い合わせに、深夜も土日も関係なく、いつでも即レスで完璧な対応をしてくれた。商標の取得などといった万暁さんの専門外の領域での質問をすると(本来は専門外で質問するほうが間違っているのに)「すぐに答えられなくてごめんなさい」というお詫びの言葉とともに即座に他の先生を紹介してくれた。そして、頼りない僕たちが適切にサポートを受けられるよう、わざわざ打合せに同席までしてくれた。

本業も忙しいなかで、なぜこんなにもタイムリーかつ完璧に対応をしてもらえるのだろう?そんな疑問をある時ご本人にぶつけてみると、こんな答えがサラっと返ってきた。

「フィーが発生する本業のクライアントも、フィーが発生しないプロボノのクライアントも、僕にとってはまったく同じクライアントですからね」

この人にもっと深くサポートしてもらいたい。
この人の仕事に向き合う姿勢から、もっと学びたい。
この人と一緒に、社会を変えていきたい。

そんな思いが強まった僕は、思い切って役員として団体にかかわって頂くことをお願いした。万暁さんはそのオファーを快諾してくれ、2012年からはクロスフィールズの監事として本格的に経営参画してもらえることになった。

土砂降りの雨のなかでオフィスに来てもらい、ぐしょぐしょの靴で打合せをしたときの写真

監事になってからの万暁さんは、さらにギアを入れてコミットしてくれた。

印象的だったのは大企業との契約交渉だ。契約書のやり取りでは、どうしても実績のない小さなNPOは不利な条件になりやすい。こうした局面で僕たちが折れそうになると、「なに言ってるんですか!クロスフィールズがやっていることは本当に尊いんです。絶対に安売りせず、平等な条件を勝ち取りましょう」と、僕たち以上に大企業に対して憤り、一緒に戦ってくれた。

振り返ってみても、あそこで弱腰になってしまったら事業運営のあり方は大きく変わっていた。いま当団体が25名ほどの仲間に給与を支払いながら持続的に運営できているのは、あのとき万暁さんが大企業と対等な協働関係を勝ち取れるよう全力で応援してくれたからだ。

また、万暁さんは団体が行うイベントにいつも嬉しそうに顔を出してくれた。三浦海岸で行った1泊2日の役員合宿に参加してもらったときには、会議施設で延々と長時間の議論をして、夜は飲み放題プランでくだらない話で大盛り上がりした。あの夜は、いまも忘れることのない幸せな時間だ。

三浦合宿で行った役員合宿の夜の部の模様。まるで部活の合宿のようだった

万暁さんが独立されてからは、同じ経営者として、追い求める経営の姿勢についてよく話をするようになった。万暁さんは、どんなときも「最高水準の倫理観」を経営と意思決定の最も大切な軸として貫いていた。

「株式会社は上場というプロセスを目指すことで組織として様々な成長を遂げていく。そのプロセスがないNPOは、自ら自律的に成熟する必要がある」

日本のNPOへの危機感と期待がにじみ出ている万暁さんのこの考えに基づいて、スタートアップであればIPOを視野に入れるだろう創業10年が近づいたタイミングでは、万暁さんはもう1段踏み込んでクロスフィールズと僕の経営のあり方を問うようになった。

団体としても経営者としても未熟な部分ばかりで、特にここ数年、僕は何度となく万暁さんにご迷惑とご心配をおかけした。そのたびに、万暁さんは愛を込めて、数々の厳しいフィードバックを与えてくれた。自分がここ数年で経営者としてなにかしらの成長を遂げた点がもしあるのだとすれば、それは「最高水準の倫理観」を体現する万暁さんがそばにいてくれたからだ。

クロスフィールズの現役員陣と、オフィスの前で

万暁さんが重い病に冒されていることは、かなり早いタイミングで教えて頂いた。絶句している僕のことをジョークを交えて励ましつつ、病気がどの程度の深刻度合いで、また、今後の見立てはどうなっているのかを淡々と説明してくれた。そして、団体として対応すべきことや今後の打ち手などを、すべて僕よりも先回りして考え抜いて教えてくれた。

闘病中も監事としての責務を果たし続けてもらい、理事会にも体力が許す限り参加してもらった。自分とは何度も個別に対話をしてくれて、いままで以上に熱を込めて、自分とクロスフィールズへの期待の言葉をもらった。最後の最後の最後まで、クロスフィールズというNPOを全力で応援してくれた。

僕との最後のミーティングは、5月18日だった。もしかしたら最後になるかもしれないという予感がした僕は、Zoom越しにこれまでの御礼とこれからの決意を伝えさせてもらった。

「これから意思決定に迷ったら、万暁さんだったらどう判断するかを、常に想像しながら経営していきます。自分のなかにいる万暁さんとともに、これからも胸を張って戦っていきますね」

この言葉を聞いた万暁さんは、僕が初めて見た涙を拭いながら、ポツリと言い残してZoomを退出した。

「ありがとうございます。プロボノをやっていて、こんな関係が築けるなんて思わなかったですね」

万暁さんはプロボノを愛し、プロボノの意義と素晴らしさを信じ切った人だった。そのことが、最後の言葉から改めて伝わってきた。そして、プロボノによってこれだけ豊かな関係性が生まれるということを、万暁さんは僕たちにこうして教えてくれた。

NPO経営者の仲間たちと


ここまで書いたのは、万暁さんがクロスフィールズというNPOにしてくれた貢献のほんの一部だ。そして、僕たちと同じような感謝の念を万暁さんに抱いているNPO関係者は、きっと信じられないほど沢山いると思う。

万暁さんという偉大な人物が、NPOの世界にしてくれたこと。その計り知れないインパクトに対して感謝の気持ちを伝えつつ、万暁さんがいなくなった世界でも、僕たちは前を向いて歩いていきたいと強く思っている。

万暁さん、本当に本当に、どうもありがとうございました。

SVP東京でご縁を頂いたプロボノチームのメンバーと


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