6年半ごしの“第九“
アラン・ギルバート指揮 “都響スペシャル“
あくまで個人の好みの問題なのだが、昔からどうしても「年末に第九」という文化が苦手。なので、どんなに好きなオーケストラや指揮者の公演でも年末の第九は観に行ったことがなかった。いや、それはそれで面白い風習だとは思うのです。「日本独自の文化のひとつとしての、ベートーヴェン」という意味でも。でも、別にクリスマスとか正月の曲でもないしね。ドラマなどにおける「喜びの歌」の高級クリソン扱いとか、年末じゃないと第九が聴けないような暗黙の了解が日本独自の価値観としてできあがっているのがいやだ。そもそも今や“年末のベートーヴェン“といえば九ではなく🎵ジャーンボジャーンボの七でしょう…とか。でも、そんなひねくれ者の私も、ついに初めての“年末第九“。都響スペシャル“第九“、東京文化会館で行われた12月25日の回を聴きに行きました。
なぜなら、今年の都響・第九の指揮者はアラン・ギルバートだから。
ご承知の方も多いかと思いますが(笑)、私はアラン・ギルバートにはうるさい。「うるさい」というのは文字どおり話し始めたら止まらないという意味でもあるし。2008年、翌年のニューヨーク・フィル就任を前にセントラル・パークでデビュー飾った時からのウォッチ歴が…(以下拙著参照されたし)ということでもある。今年の夏、ギルバート指揮都響がニールセンを演奏した時には、NYフィル時代のエイブリー・フィッシャーホールでもらった「I❤️ニールセン」バッヂをつけていったほどのガチ推しです。しかも、アラン・ギルバートがきっかけで、おじいちゃんのノエル・ギルバートの研究家にもなってしまい…(以下拙著…以下略)
※ノエル・ギルバートとその仕事については、拙著の他(笑)映画『エルヴィス』公開時に書いたこちらもご参照いただければこれもっけのさいわい。
https://note.com/dadooronron/n/n62559e6e9612
私はアラン・ギルバートの最高傑作は“第九“だと思っている。
マーラーでもなく、ニールセンでもなく、ドヴォルザークでもなく。ベートーヴェン。そのなかでも、第九。
2014年、音楽監督を務めていたニューヨーク・フィルとは初めての演奏となった第九を聴いた時からそう思っている。この初演以降、ギルバート&NYフィルの第九は毎回ソールド・アウトのテッパン演目となった。
この演奏、初めてラジオで聴いた時の驚きは忘れられない。
https://open.spotify.com/album/53CEpLyzAYRjniftmLeWyE?si=9Y7MqPFMRyKNHoTjRWlSCw
NYフィルのレーベルから出たコンサート録音音源、何度聴いたかわからない。この前半、第九からのインスピレーションを土台に書かれたというマーク・アンソニー・タネジの「Frieze」も素晴らしい。つか、この2作品の「つながり」こそが超アラン・ギルバート(笑)でかっこいい。
2017年には、ギルバートがNYフィルを退任するシーズンのフィナーレ公演のひとつでも“最後の第九“が演奏されることになった。
これは逃すわけにはゆかない。いちどはギルバート&NYPの第九をナマで聴かなければ…と、シーズン最後の何公演かのチケットをとった。航空券もとった。ホテルもとった。が、結局、諸般の事情があってニューヨークには行けなくなってしまい公演を観ることもできなかった。ようするに私にとっては、昨夜は「年末の第九」ではなくて「6年半越しの第九」だったのだ。
長かったよ、6年半。
宇宙に煌めく星々が、火花を散らしながら舞い降りてくる。そんな光景が思い浮かぶオープニング。アラン・ギルバートの「第九」を聴くたび、なぜかグラム・パーソンズのことを思い出す。とてもスピリチュアルな、人々の魂の内側に広がるインナースペース的な宇宙を思わせる印象のせいなのだろう。“今“の体感速度を醸し出しながらも、太古のようでもあり、未来のようでもあり。どこかオカルトチックな超常現象を眺めているような気分にすらなる。まったく根拠はないけれど、この作品を書くベートーヴェンが脳内に感じていた光景というのはこういうものだったのではないかという気がしてくる。彼の指揮する第九もオーケストラが異なれば異なる世界を見せるけれど、それでもなお、ずっと変わらないものがはっきりしている。ニューヨーク・フィルとの録音を聴いても、ゲヴァントハウスとのライブ・ストリーミングを観ても、ああ、「アラン・ギルバートの第九」だと思う。
ゲヴァントハウスとの第九もぜひ。ここでまだ全編を観られます。
https://youtu.be/ctOL0daD0VA?si=4SP_MXeX0GJ1SWKc
そして昨夜の都響とのコンサートもまた、「アラン・ギルバートの第九」だった。個人的な印象としては、ダイナミックなグルーヴはゲヴァントハウスよりニューヨーク・フィルに近い印象。金管も木管も弦楽器も打楽器も、ソリストも合唱も全部素晴らしかった。「このオーケストラは、あなたの想像以上に素晴らしいでしょう?」と誇らしげに告げるように、ソロパートに限らず演奏者それぞれの音をズームしてみせたり、アンサンブルにスポットライトを当てたりしながら、聴き手をけっして不安にさせない安定力でぐいぐい体感速度をあげてゆく…みたいな、とてもギルバートらしい統率力、音楽の紹介者としての素晴らしさがすみずみまでしみわたっていた。そう、これがアラン・ギルバートだよ…と、あらためて思うようなオーケストラル・サウンド。第九という作品は、そういった魅力をいかんなく発揮するのにぴったりの作品だ。だから、彼の指揮する第九が好きなのかもしれない。ちなみにソリスト陣は全員海外からの歌手だったが、バスのモリス・ロビンソンは、ニューヨーク・フィル時代の最後のブラヴォー!ヴェイル(野外フェス)での第九にも出演していた。たぶんゲヴァントハウスも彼だったはず。
何はともあれ。私は、かつて行こうと思っていた場所に6年半かけて遠回りしてやっとたどり着いた。いや、たどり着いたのではなくて“帰ってきた“感じかな。でも、同じアラン・ギルバートでもニューヨーク・フィルではなくて都響だから、帰ってきたと思ったら別の世界に連れていってもらったようなパラレル状態か。
2011年、都響とアラン・ギルバートの初共演を観た時には、そこから始まった長い旅路の先にこんな未来が待っていることを想像もしていなかった。
いいクリスマスでした。いやー、年末はやっぱり第九だね。
なんつって。
🎵じゃーんぼ じゃーんぼ 年末じゃんぼじゃんぼー
ちがうちがう、それは七。
念の為に貼っておく。
何をって?
7年前の拙著ですがな。もう7年だよ。
第九を観に行けなかった年の前年に行ったニューヨークで見たニューヨーク・フィルとのドヴォルザークの話。アラン・ギルバートとニューヨーク・フィルが見せてくれたマンハッタンについて。メトロポリタン・オペラの次期音楽監督に指名されたばかりのヤニック・ネゼ-セガンへの期待。そしてアラン・ギルバートの祖父、ノエル・ギルバートが紡いだ裏アメリカン・ポップス史。などなど。
たった6年ちょっとで、いろんなことが大きく変わったな…。