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「いいね!」の向こう側

「いいね!」って、まったく好きなことばじゃない。というかそう言われてなんと返したらいいのかわからない、そんな類の外国語の直訳みたいな、取り扱いにこまることばだと思っていた。
 facebookをはじめる前は、mixiで一年間、日々欠かさず日記みたいなものをつけていた。「毎日書く」という行為を自分に課していたといっていい。きっとそのころはことばの筋トレみたいなことをしたかったのだと思う。まとまった内容ではなく、ときには数行と短くても、とにかく「毎日書く」ということを重要に思っていた。
 facebookをやるようになって、もう少し長く、原稿用紙三枚を目安とした量を書くことを決めた。すると周囲から、そこは長い文章を書く場ではないとか、政治的こともふくめて意見を言うところではないという注意を受けた。どうしてかと聞くと、それがルールだとか、長いとだれも読まないからだと言われた。

 ぼくはべつにだれかに読んでもらいたくて書いてはいなかった。それはずっと、いまもかわらない。自分がなにがしかでないことは充分わかっているし、取るに足らない分際であることの自覚もある。しかしそんな分際にも感じたり、考えたり、なにかを思ったりすることはある。それをことばにしてみるだけだ。そうすると、それが自分との対話となって、ほんの少しだけひらけるようになるから、そうしている。
 それ以上になにかを期待して書くことはない。ではなぜそんなものを公にするのか、する必要はないという意見もあろうかと思う。それでもやるのは、そこに薄い皮膜のようなコミュニケーションを信じているからと思う。
ここに書きはじめた当初は「いいね!」なんて、冒頭でも言ったように、どうしていいかわからない外来語だった。しかし何年も経つうち、特に今年になってから、その意味合いが少し自分のなかで変化していることに気がついた。

 具体的ななにかがあったわけではない。ただかつてであれば無機質な「いいね!」でしかなかったものが、その向こうがわで押したひとの表情がうっすらと見えるようになってきたのである。
 ぼくが書くような長くてつまらないものを、わざわざ読んで、しかもそこに感情の起伏さえもともなっていたりする、そんな読み手の存在を、ここにきて感じるようになった。
「いいね!」にそんなグラデーションはないはずだから、たんなる勘違いかもしれない。しかしそんなひとり勝手な思い込みも、仮想の読み手との薄い皮膜のようなコミュニケーションのありようを信じ続ける糧となる。デジタルはそんな頃合いのいい関係の、おおきな後押しと場の実現を助けているのかもしれない。

 facebookで書き始めてから何年になるのかはわからないけれど、ハードディスクにある専用のフォルダにはずいぶんとたくさんのことばが溜められている。
 だめだろうが下手であろうが、続けていくというのは大切なことだと思う。その途中の節目で、なにかしらのギフトがある。いま、ぼくは思いもよらない「いいね!」にそれを感じている。それらは、ともするとやめたくなる「書くこと」を励ましてくれる。
 とはいえ、励まされても自分に書くという姿勢はかわらない。ほかに媚びることもしなければ、なにがしかをねらった「いい話」を書くつもりもない。

 おそらくぼくたちは、この先、とんでもない未来を経験することになる。野村證券のおねえさんやソニー生命のライフプランナーがノートブックで見せてくれるような将来設計には決してはいってこないような、予測できない事態がやってくる。いままでがこうだったから、こうなるだろうといった推量が通用しない、まったく新しい未知なるフェーズを想定しておかなければならないと思う。
 来年のいまごろ、どこかで核戦争が起きていること、はかりしれない自然災害を経験すること、国の経済が破綻すること、今月の家賃が払えなくなること、食糧危機がくること。
 それらを自分の肌に染み込ませながら、そのとき果たして自分はどういう態度で事態に処するのか。ぼくはそのときに備えるために書いている。書くことでやってくるであろう未来をなんとか生き残ろうと思っている。だからこそ必死である。


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