酩酊の余白
野呂邦暢の長編小説『丘の火』(文藝春秋)を読んでいると、主人公がスコッチのウイスキーを飲む場面があった。
主人公が飲んでいるのは上等なスコッチ・ウィスキーだ。彼は以前まで地方都市でちいさな出版社に勤めていた。仕事を辞めて間もなくパーティで知り合った地元の資産家から依頼を受けて、第二次世界大戦中にある島に出兵した父親が書いた戦記の筆耕と加筆を引き受ける。
彼は仕事場所として屋敷の書斎を借りて、邸内では食事を始め女中の世話を受け、調査にあたる経費は報酬とは別途制限なく支払がなされる。依頼の延長で図書館に戦争の関連資料を調べに赴き、同じ戦地から帰還した兵士を訪ね、調査費の建前で寄ったバーで知るつもりのなかった情報を手に入れる。どこか私立探偵小説を想い起こさせる構成は、野呂邦暢が推理小説愛好者であったことと無関係ではないだろう。
作中には主人公が調査したさまざまなひとの手による戦記の記述が引かれる。複数のテキストに加えて、作中人物による戦記から欠け落ちた数章が物語を謎めかす仕掛けがある。
*
『丘の火』の主人公ではないが、ひとりで酒を飲みたくなることがある。そういう時は、たいてい酒を飲みながら本が読みたい。それはアルコールが体内を巡る心地よい高揚感とともに読書を楽しみたいという邪な理由に拠る。家で飲むこともあるが、家にいる時はだいたい気の抜けた状態であって、それでアルコールをいれるといつもより酔いが回り、結果たいして飲酒も読書も捗らないままに寝入ってしまう。だから、仕事から帰る道すがら、あるいは休みの日に、近所の飲める店で本を読むことになる。
たとえば住宅地や商店街の一隅に佇つバーは、都会のそれと比べて格式ばっていなくて、気楽にお酒だけ飲んでいられるのでいい。カウンターしかないちいさな店内の端で、音楽に耳を傾けながらの読書は、文章にするとやや気障っぽくはあるが、それぞれの店から漂う生活感とアルコールが混じり合うと、そのうち洒脱とでも呼ぶべき心地からは緩やかにずれていく。その反面バーなどというものに行き慣れない身としては、ほどよく緊張感もあって眠くなることがない。
赤提灯を垂らして賑々しくたちならぶ居酒屋も、それはそれで楽しみがある。時にバーはあまりに照明が暗く手元の活字を追うには苦労することもあるが、居酒屋にその心配はない。気安く寄れるのもいい。他人の歓談もいくつか混じりあえば一語一語の意味はばらけてただの雑音になる。雑音があるくらいのほうが読書も捗ることがある。
*
『丘の火』で主人公がスコッチのウィスキーを飲む場面は、あっさりとした筆遣いで書かれている。味や香りに紙幅が費やされているわけでもなく、ただ主人公はグラスを乾すだけだ。しかし、なにげない一場面が私の頭のなかに妙に残っていて、あのスコッチらしい幻の燻香が鼻孔をくすぐり、彼と同じ蒸留酒を喫する欲望へとかりたてる。
どこで酒を飲むにしろ、家の外であればそこには大抵自分以外の誰かがいるものだ。当然のことながら多くの他人は酒を飲む時には読書以外のことに没頭しており、にぎやかに、時にひそやかに話しこみ、グラスを呷っている。
いくつもの会話が飛び交い熱っぽい空気に包まれた空間で読書するうちに、ある瞬間に周囲の音が遠のいて、文章のなかに沈みこんでいく感覚が訪れる。文字で構成された世界の、その外界にある夾雑物は頁の余白のなかでまっさらになっていく。時に文章を読んでいる「私」さえも漂白され、そこには完全な言葉だけの世界が在り続ける。あの幸福な時間が味わいたくて、私は酒を飲み、本を読んでいる。