「らっしゃいやぁせ!」
昼下がり、美容院に行く前に時間がぽっかり空いたので駅の周りを散策する。こんな蒸し暑い日はさっぱりしたものが食べたくなる。そんなことを考えているとちょうど良いところに蕎麦屋があった。ちろりと中を覗くと、食券機とカウンターだけの簡素な店構え。お客さんは誰もいない。カウンターの中で仏頂面のおじさんがせっせとネギを刻んでいる。その隣におばさんが座っているが、手元を見つめて微動だにしていない。暖簾をくぐり引き戸を開ける。おばさんがこちらに目をやり、手元を動かす。おじさんが下を向いたまま「らっしゃいやぁせ!」と声を上げる。
ざるそばカツ丼セットの食券を買い、おじさんの正面に座る。食券を差し出すと、横にいたおばさんがおしぼりと水を差し出してくれた。蕎麦屋のカツ丼とか天丼って、どこ行っても美味しいよな。なんでなんだろ。蕎麦の出汁を使ってるからなのかな。そういえば、加藤浩次は蕎麦打ちが趣味だって言ってたな。蕎麦の味も「スッキリ!」しているのだろうか。しばらくぼんやり考えていたら、おばさんが黙り込んだままお盆を差し出してくれた。こんまり盛られたざるそばに、てらてらと光る卵とじのカツ丼。しっとり出汁が染み込んだカツの上には、可愛らしい三葉が乗っている。キタキタキタ。手を合わせ、箸をとる。
カツ丼を綺麗に平らげ、蕎麦もそろそろ食べ終わりそうな頃合い。せいろの隙間に短い蕎麦が1本引っかかって、端っこがぴろんと出ていることに気づく。箸でつまもうとしても、つるつる滑って上手く取れない。何度か試してようやくつまめたと思ったら、引っ張っても全く動かない。せいろの裏側に張り付いているとしか思えないほど、抵抗がすごくてびくともしない。ヤケになって引っ張っていたら、プチンと蕎麦がちぎれてしまった。その途端、おじさんが下を向いたまま声を上げ始める。
「らっしゃいやぁせ! らっしゃいやぁせ! らっしゃいやぁせ!・・・」
僕1人しか客がいない店内に、とどまることを知らないおじさんの声が響き渡る。急いで千切れた蕎麦をせいろに押し込もうとするが、焦ってしまって上手くいかない。顔を上げておばさんの方を見てみると、大慌てで手を動かしている。覗き込むと、おばさんの手元に置いてあるせいろから無数の短い蕎麦が生えていて、それぞれ下に付箋が貼ってある。赤い付箋の貼ってある蕎麦を一心不乱に引っ張りながら、おばさんが顔を上げ「貴様、何をした!!」と叫ぶ。蕎麦食ってただけです。そう答えることもできず、「すいません、すいません」と頭を下げ、逃げ帰るように引き戸へと向かう。おじさんの声が追いかけてくる。
「らっしゃいやぁせ! らっしゃいやぁせ! らっしゃいやぁせ!・・・」
その後のことは良く覚えておらず、気づいたら美容院の椅子に座っていた。普段ならスタイリストさんと雑談するところだが、動揺が収まらずそれどころではない。呆然としていると、いつの間にかカットと顔剃りが終わっていた。「こんな感じでどうでしょう」と言われ、我に返って鏡を覗き込む。顎の右側に、ちょこんと1本飛び出た髭の剃り残しを見つける。千切れた蕎麦が頭をよぎり、「ヒッ」と小さく声を上げてしまう。「大丈夫ですか?」と尋ねられ、引き攣った笑顔で頷く。
しばらく蕎麦は食べたくない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?