眉毛、そしてなぜ僕は「書く」のが好きか

昔から、「すぎる」ものに惹かれてしまう。熱すぎる、冷たすぎる、大きすぎる、難しすぎる。

この前、宮城に行った。松島の瑞巌寺を見学に行った際、お寺の中に飾ってあった展示の掛け軸が目に止まった。こんな趣旨の説明書きが横に立てかけてあった。

「ある人が、お坊さんにこう質問しました。『仏教の教えを誤って人に教えると、眉毛が抜け落ちてしまうと聞いた。俺の眉毛は、まだ生えているだろうか。』お坊さんは、こう答えました。・・・」

「関」

訳が分からなすぎる。

まず、何で眉毛が抜け落ちるんだ。悪いことをしたら閻魔様に舌を引き抜かれるぞ、とかは小さい子供の脅し文句として良く聞く。痛いし、喋れなくなるし、味も分からなくなるし、絶対に嫌だ。でも、眉毛が抜け落ちるのは何の罰ゲームなんだろう。なんで髪の毛でも、すね毛でも脇毛でもなくて眉毛なんだろう。

そして、なぜ眉毛が抜けているのかどうかをお坊さんにわざわざ聞くのだろう。江戸時代にも鏡はあったし、何なら古墳時代、いやもっと前から鏡はあったらしい。いや鏡が仮になかったとしても、その辺の池を覗き込めば自分の眉毛がどうなっているかなど簡単に確認できる。きっとこの人は、令和に生まれていたら「明日って何曜日だっけ?」とLINEで友達に聞くタイプの人だっただろう。入り口に「現金のみ」と張り紙が貼ってある蕎麦屋で、会計の時に「あ、PayPay使えます?」と悪びれず尋ねただろう。「お客様、当店禁煙です」と言われても「いや、これIQOSなんで」と真顔で答えただろう。

そして「関」である。調べてみたら、仏教用語で、「仏教の教えの要所」を表すらしい。いや、答えになっていなくないか。「俺、眉毛抜けてる?」と聞いて「ん〜、関だわ」と答えられたら、僕だったら小さじ一杯分くらいキレてしまうと思う。調べればすぐに分かる曜日を聞くやつも大概だが、それに「明日小松菜奈の誕生日らしいよ」と答えるやつも大概である。全く関係ないが、小松菜奈の名前をつける時、家族会議で「ちょっと待って、このままだとウチの娘75%野菜になるよ???」と勇気を振り絞って言う人はいなかったんだろうか。

恐らく、こういうことなんだと思う。

「教えてほしい。俺は仏教の教えを人に誤って教えていないだろうか。煩悩を捨て、悟りを目指すことを人に説く、そんな俺自身が、実際のところ誤った道を進んでいるのではなかろうか。眉毛が生えていると思い込んでいる、そんな勘違い野郎なのではなかろうか。」

「生き急ぐでない、悩める若者よ。自分の教えが間違っているのではないか、そう内省する過程そのものが仏教の教えの重要な一部なのである。大いに悩むが良い。大いに疑うが良い。ただし、自分が正しい道を進んでいるという自信だけは失ってはならぬ。お前は今、要所を乗り越えようとしているのだ。」

いや、だったら最初からそう言えばいいのに。眉毛とか、「関」とか言わなきゃいいのに。ややこしくしなけりゃいいのに。もちろんそういう人もいると思う。実際一理あると思う。でも、僕にはこの「訳分からなすぎる」が面白くて仕方ない。これに限らず、「何言ってんだ」とか「そんな訳ないだろ」とか、そういうものが好きで好きでたまらない。合理的、スピーディーであることが求められる場面は世の中にたくさんある。それでも、それに逆行するような、非効率的で、意味が分からなくて、そもそも意味など無いようなものが僕は大好きだ。だから「書く」という行為が好きなのかも知れない。

文筆家の伊藤亜和さんが、こんなことを言っていた。

言葉には情報を凝縮する役割がある。凝縮することで人類はより多くの情報を簡潔に伝えることができるようになった。でも、物書きはそれを台無しにするためにいるべきだと思う。情報を圧縮するのが言葉の役割なら、それをもういちど分解して並べて組み立て直すことが「文章を書く」ってことなのではないか。

伊藤亜和『アワヨンベは大丈夫』晶文社

生まれて初めてディズニーランドのカリブの海賊に乗った時、父親が「落ちるのが怖かったら、頭を真っ白にすればいいよ。怖くなくなるから」と言ってくれた。どうすれば良いのか全く分からず、ひたすら文字通り白いキャンバスを頭に描いた。落ちる瞬間は普通にめちゃくちゃ怖かった。

僕の頭の中は、常に言葉なり、音楽なり、映像なりで埋め尽くされている。「頭を真っ白にする」という行為が昔から本当に苦手で、頭を休めることができない。心理士の人に「あなたの弱点は『何も考えない』ができないこと」と言われて、まさにそうだと腑に落ちた。常に脳内がざわめいていて、取り止めもない考えや光景が行ったり来たりしている。死の直前に人は走馬灯を見るというが、常に走馬灯状態なので死の間際になっても「普段と変わらねえじゃねえか!!」と叫んでしまいそうだ。そんな頭の中にあるものを何とか吐き出して整理しようと、僕は文章を書いている。そうして吐き出されたものを改めて眺めても、大抵の場合訳が分からない。でも、それで良いんだと思う。

ありがたいことに、僕の書く文章を「好き」と言ってくれる人がいる。本当に嬉しい。僕の書く文章は、これからも何が言いたいのか分からない、そもそも意味があるのかどうか分からない、そんな文章であり続けると思う。核心をつかない、解を提示しない、一貫性がない。それが許されるから、「書く」という行為が大好きだ。これからも、好きと思える文章を書いていきたいし、それが人に届いた時の喜びを味わっていきたい。

関。



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