エスカレーター、歩いてほしいのか、歩いてほしくないのか
「エスカレーターの両側に立たせる」という試みが、JR東京駅で始まっている。
・参考:NHKのニュース記事
この記事にもあるように、世間では賛否両論である。
自分はどちらかというと歩く側なので、どうしても「片側開け&片側歩き」の人の肩を持ってしまいたくなるのが正直なところである。
一方で、「歩くのはやめてください」と言われれば、それを無視してまで歩こうとは思わない。
エスカレーターの乗り方に関する議論は、ここ数年活発になっていると感じる。
少なくとも、自分が大学生の時にはあまり話題になっていなかった印象がある。
なぜ近年になって盛んになったのだろうか。
「オリンピック」がキッカケとは、正直あまりピンとこない。
毎年のように論じられ、その都度キャンペーンの「ポーズ」で終わり、賛成派と反対派の意見が平行線を辿るこのテーマについて、
自分がいつも思うのは「結局、エスカレーターは歩いてほしいの?立ち止まってほしいの?」という疑問である。
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エスカレーターを「デザインの敗北だ」という意見があるように、そもそも歩ける構造になっていることが間違いだという考え方がある。
この考え方、すごく要点を突いていると思う。
歩くことを想定していなかったら、あのような階段状のデザインになっていないだろうし、
2000年代初頭に蔓延した「バリアフリーの観点から、とりあえず階段を取っ払ってエスカレーターにしちゃいました」ということにもなっていないはずである。
歩く派に対する「急ぎの場合は階段を使え」という指摘は最もなのだが、使いたくても階段という選択肢が用意されていない以上、どうしようもない。
そのような指摘より、「我慢して立ち止まれ」の方がむしろ腑に落ちる。
もう一つ。
「転倒防止」でエスカレーターの速度を落としている場合があるが、個人的にこれは最悪の施策だと思っている。
こんなことしたら、余計に歩く人が増えるのではなかろうか。
「エスカレーターを歩く人=急いでいる人」と考えると、急ぎたい人の意思に反した施策であるし、
「通常の速度だったら歩かなくてもいいと思っている人」も「歩く人」に変容させる可能性も孕んでおり、(厳しいことを言うが)なんの解決にもなっていない可能性が高い。
「歩く人」を減らしたいのであれば、むしろエスカレーターの速度を上げる方が効果的なのではないかと思ってしまう。
結局のところ、今日本で巻き起こっているエスカレーターの論争は、「歩いてほしいのか、歩いてほしくないのか」という肝心の部分がよくわからず、個人の感情論のぶつけ合いなってしまっている印象を受ける。
「歩く派は階段を使え。立ち止まって乗りたい人もいる。」
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「急ぎたくても階段がない。立ち止まりたいならエレベーターを使え。」
この2つの主張が堂々巡りになってしまっている。
ただ。
大事なのは、どちらも主張も間違っていないし、尊重するべきなのではないだろうか。
それが「多様性」であると個人的には思う。
この両者の共存を目指した「エスカレーターの片側開け」は素晴らしいアイデアであるように思うし、
最初にこれを考えた阪急電鉄を責めるような論調になっているのは、どこかおかしい気がする。
「オリンピックに向けて何もかも変えようとせずに、別に今のままでもいいじゃないか。」と、自分は思ってしまう。
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(今回の「エスカレーターに立ち止まって乗る」ことを、外国人観光客に対するおもてなしだという意見もあった。
流石にこれは暴論すぎるだろう。
さっき東京駅を通った時に、立ち止まりを呼びかける“ピンクベストの警備員”が、外国人に道を聞かれて2人がかりで苦戦している様子を見て、「本当のおもてなしって、どういうことだろう」と思ってしまった自分がいる)
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