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『ダブドリ Vol.16』インタビュー04 片岡大晴(仙台89ERS)

2023年2月22日刊行の『ダブドリ Vol.16』(株式会社ダブドリ)より、片岡大晴選手のインタビュー冒頭を無料公開します。

 ただ真っ直ぐに己の信念を貫くことは言葉にする以上に難しい。さまざまな苦悩や葛藤がある中で、時にその苦しさに負けてしまう時もある。しかし、どんな時も前向きに誰よりも熱く、その信念を貫き通してきた片岡大晴。多くのファン・ブースターが尊敬と愛着を込めて彼のことを「ソルジャー」と呼ぶ。信念を武器に戦い続けてきた男が今、思うことは……。ソルジャーのこれまでと今まであまり語られることのなかった本音を地元仙台の地で、小学生時代から切磋琢磨してきた盟友の川村卓也が紐解いていく。(取材日:11月10日)

Interview by 川村卓也/photo by 菅野高文

先輩たちの存在は、今の自分の教科書と言っても過言ではない。

川村 マサ(片岡大晴選手)とはミニバスの頃から対戦をしていたから、かなり早い段階でお互いの存在は知っていたよね? 松陵ドリームの女性の監督が片膝ついて、ベンチから指示を出してたのを覚えているな。
片岡 ハハハ。そうそう! よく覚えてるね。すごいな、小学校の時からそんなところを見ていたんだ。
川村 覚えてるよ。年齢はマサが1つ上なんだけど、こんな感じで昔から付き合いをさせてもらって。中学校でも試合をしたよね?
片岡 いや、中学校はほぼ戦ってないと思うよ。俺らは県大会に出られなかったから。
川村 じゃあ、俺の記憶は高校の時か。何回も対戦したからな。
片岡 そうだね。仙台高校の時はタク(川村卓也氏)がいた盛岡南高校とよく試合をしていたよね。でも、ミニバスも中学校も川村卓也は1つ上の世代の俺らの時から目立つ存在だったから、ね?
川村 いや、「ね?」って(笑)。「そうだよ!」とか言えないでしょ。
一同 ハハハハハ。
川村 そんな感じでマサとは出会って、切磋琢磨して、第二の出会いというか、再会をプロ選手として果たすって感じだね。
宮本 JBL時代の栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)ですね。当時はお互いどういう印象だったんですか? ポジションがかぶりますよね?
川村 モロかぶりですね。
片岡 俺はタクの代わりにコートに立つ役割でした。当時、俺はルーキーでブレックスに入団したけど、タクは高卒プロとして、4年目?
川村 そうだね、4年目。
片岡 プロとしては先輩ですよね。
川村 でも、インタビューでこんな話をするのもあれですけど、相当に手を焼かせたと思います(笑)。
宮本 ハハハ。当時はやっぱりギラついていたというか?
川村 僕は高卒からプロの世界に入って、舐められちゃいけないと思ってずっとやってきていたし、それまでも1番じゃなきゃ納得いかない性格だったので、先輩たちに食ってかかったこともたくさんありました。そんな中でブレックス2年目に初めて日本一を経験した時に、自分の後ろにはマサとか、タケさん(竹田謙/横浜ビー・コルセアーズGM)とか、バックアップをしてくれる仲間がいたからこそ、好き勝手にやらせてもらえる時間があったんだなって気づいたんですよね。それは今振り返るとより思います。でも、当時はバチバチやっていましたよ、手に負えなかったと思います(笑)。
宮本 ハハハ。そんな川村さんを片岡選手が、「まあまあ」って感じだったんですか?
片岡 僕はただ元気出してやっていただけだったんで、タクをちゃんと見て、包んであげているのはタケさんとか、竜三さん(安齋竜三/越谷アルファーズアドバイザー)だったり。そういう偉大な先輩たちがいてくれたので、すごくいいバランスだったというか。僕ももちろん、タクもそういう先輩たちがいてくれたからこそ成長することができたと思います。ブレックスでの数年間、先輩たちの存在は今の自分の教科書と言っても過言ではないぐらいです。そこにルーキーで加入できた自分はすごくラッキーだったなって思います。

自分の信念で動いてこれた。

川村 思い出話に花が咲いちゃいましたけど、そんな中ですよ(笑)!
一同 ハハハハハ。
川村 マサのキャリアはブレックスからスタートして、当時bjリーグの京都ハンナリーズにドラフト1位で選出されて活躍しました。そこからレバンガ北海道に行って、地元仙台89ERSに帰ってきます。特に仙台に加入したところを今回は聞きたくて、当時はいろんな選択肢があったと思うけど、仙台に帰る、仙台でプレーしようと思った理由はなんだったの?
片岡 そもそもブレックスからbjリーグに挑戦したときに、自分の中では仙台でプレーしたいっていう気持ちがあったんだよね。それはやっぱり2011年の東日本大震災が大きくて、地元のために何かしたいと考えたときに、自分はバスケットしかできなかった。バスケットを通じて仙台に元気を与えられる存在になれたらいいなと思って、bjリーグにトライしたんだけど、その時はドラフト制だったから、縁があって京都に行くことになった。時間が経って、やっぱり震災のことは自分には大きくて、仙台への思いがずっとあったって感じだね。
川村 僕も東北の人間として、あの震災っていうのは、すごい……なんて言えばいいのかな。当時、僕らは宇都宮体育館での練習中にあれを経験したんだよね。やっぱり真っ先に浮かんだのは東北のことで、心配だったし、不安だったし。マサの仙台に対する思いは俺が把握しているよりもさらに大きなものだと思うけど、やっぱり東北の人間としてはいろんなことを考える、考えさせられる1つの大きな出来事だったなと思います。その中で仙台に加入して、B.LEAGUEの開幕も地元仙台で迎えたけど、B2降格という結果になってしまった。その後に京都に再び移籍してキャリアを歩むわけだけど、そこはあえての京都だったの?
片岡 そうだね。京都に行ったのは……当時のヘッドコーチだった浜口炎さん(元富山グラウジーズHC)の存在はすごく大きかったね。
川村 俺も選手だったからすごくわかるというか……。他の選択肢もあった中で浜口さんの下でプレーしたいと思って京都と話をしたの?
片岡 そうだね。そこは本当に大きかったね。
川村 もしも浜口さんが他のチームにいたら、そのチームになっていた可能性もある?
片岡 かもしれない。それぐらいの思いはあった。
川村 マサがそう感じる浜口さんの魅力ってどんなところなの?
片岡 使ってもらえる、もらえないは置いといて、浜口さんとバスケをしてシーズンが終わった時にすごく特別な感情になれるというか……。bjリーグの1年目、最初に京都でプレーした時はみんなで頑張って有明にも行けて、すごくいい結果で終わることができた。でも、もしそうでなくても、終わってからすごく楽しいシーズンだったって思えるのが浜口さんなんだよね。みんなで頑張っていこうって選手に伝えてくれて、目標に向かって進んでいけるというか。
川村 俺も選手をやってきて、やっぱり自分は勝ちたかったし、1度優勝を経験してしまうと、またそこにいきたいなっていう思いがどうしても強くなってしまう。普通じゃないかもしれないけど、俺はチャンピオンを目指すのが、プロ選手としてのファンに対する大きな付加価値なのかなって思うんだよね。だけど、今のマサの話を聞いていると、選手としても成長しつつ、自分の人間性だったり考え方を熟成させてくれる浜口さんと一緒にやりたいっていう思いで京都に行ったのかなって。マサのキャリアを見ていると直近は京都と仙台を行き来していると言うのかな。これだけ多くのクラブがある中で、逆にすごいことだと思うんだけど、それだけマサの中で京都と仙台は特別なものなのかなって思ったんだよね。その辺を噛み砕いて教えてほしい。俺は今日、大柴さん(ダブドリ発行人)にそれを引き出すことを託されて来ているから。
一同 ハハハハハ。
片岡 うまくは言えないんだけど、B.LEAGUE初年度に仙台でB2に降格した時は、降格したらその苦しみを背負ってまた次のシーズンもみんなでトライするのがやっぱりいい道なのかなっていうことを考えたなかで、京都への移籍を決めたんだよね。当時はやっぱりまだまだ終わりたくなかった。もっと成長したいとか、輝きたいという思いがあって、正直自分が仙台に居続けたらダメになってしまいそうな気がして、移籍を決断したんだよね。その時に浜口さんが声をかけてくれた。だから、当時は移籍したいので誰か取ってくださいみたいなことはしていないし、リストにも載せていない。そこから2年間を京都でプレーして、仙台に戻りたいって思ったのはわがままかもしれないけど、降格した時の気持ちがずっとあったのは本当なんだよね。仙台に残ったチームメイトやブースターさんたちが頑張っている中で、自分が抜けた後にすんなりB1に上がっていたら、この移籍はなかったと思う。やっぱりみんなが苦しい思いをしているんだろうな、だったら自分もその過酷なB2からB1に上がるチャレンジに身を置くことが、その時はやるべきことだなって思って仙台に戻る決断をしたんだよね。京都、仙台、京都、仙台っていうのは自分の中ではすごく自然なことで、周りに何を言われようとあまり左右されず、自分の気持ち、目の前のことだけを見て進めた道ではある。自分の信念で動いてこれた。たまたま受け入れてくださったっていう運もあるから、チームのおかげでこの道を進めたっていうのも大きいし、いろんなことにすごく感謝しているね。

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