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Bの源流(7) 球団存続の危機を託された大学生GM/サンロッカーズ渋谷 松岡亮太

 大分ヒートデビルズというプロバスケットボールチームが、かつてbjリーグにあった。その愛称は別府温泉の「ヒート(熱)」や「別府地獄めぐり」に因んで名付けられた。系譜は愛媛オレンジバイキングスに引き継がれているが、大分県にプロバスケはもう残っていない。しかしデビルズは今のバスケ界、B.LEAGUEで活躍する人材を多く生み出している。
 Bの源流を探るこのシリーズでは、初めて“消滅球団”を取り上げる。
 デビルズは2005年にbjリーグの「オリジナル6」として立ち上がったものの体制が何度も変わり、12年末にはついに経営が行き詰まった。リーグは社団法人を結成し「シーズン終了まで」という条件で運営を引き取った。ただし報酬の不払いが発生していて外国籍選手、主力選手はチームを去っていく――。そんな現場で奮闘したひとりが立命館アジア太平洋大学(APU)の現役学生ながらゼネラルマネージャー(GM)を任された松岡亮太だった。

[ Interview by 大島和人/Photo by 本永創太 ]

*この記事は試し読みです。全編掲載のダブドリVol.18はココから↓


突然の経営破綻宣告

 2012-13シーズンの大分ヒートデビルズは当時の親会社・オーリッドの意向もありプレーオフ進出、優勝をうかがう意欲的な補強を進めていた。にも関わらず肝心のスポンサー料が入金されず、経営陣は徐々に追い詰められていく。
 松岡はオフ明けの火曜日、12年11月20日に経営者から下された「破綻宣告」を記憶している。

「練習に行く外国人を車でピックするんですけど、社長から電話がかかってきて、『全員を先に事務所へ連れてきて』と言われました。『まだ金が払えないとかそういう話?』と軽い感じで事務所に行ったわけです。お金が厳しいという話は慣れていましたから。そうしたら橋本(知宏)社長から『潰れる』と言われて、『えっ』となりました」

 この時点で松岡はまだGMに就任していない。通訳兼アシスタントマネージャーを任されて2シーズン目だった。
「初めてそこで倒産という英語を学びました。“bankrupt”と言うんですけど」

 松岡は外国籍選手たちを家に送り返して、再び事務所に戻った。不安を抱えながら、選手たちは夜更けまで語り合ったという。火曜日の練習はキャンセルされ、水曜日も自主練習になった。
 その直前にチームからリーグへのSOSも出されていた。社長とヘッドコーチ(HC)だった鈴木裕紀が、東京都港区にあったbjリーグのオフィスを訪ねている。リーグの理事で、西日本の球団を担当していた阿部達也が事態の収拾に当たった。

「中野(秀光)社長と河内(敏光)コミッショナーと3人で話し合いました。私の案は(各チームが出し合って積み立てた)基金から資金を貸し出して、急場をしのぐ内容でした。そういう経営状態であれば、未払いは沢山あるだろうから払う必要がある。試合のチケットは売られていて、チームを無くしたら(相手チームも)困る。もちろんリーグがずっと面倒を見るわけにもいかない。だからシーズンの残りだけ、一時的に運営するスキームです」(阿部)

 リーグ側は「テンポラリー・ゲーム・オペレーション」と名付けた社団法人を結成し、阿部が代表理事に就任した。阿部は事態収拾のため経営を担い、東京と大分を毎週のように往復することになる。
残りシーズンを消化するため、デビルズの「仮設運営法人」に与えられた予算は2500万円。この金額は当時のbjリーグ参入権と等価で、次の法人に引き継げれば基金に穴が開かない目算だった。
 もっとも多少のチケット収入が期待できたとしても、追加のスポンサー料収入はほぼ期待できない。何より年俸、試合運営のコストは勝とうが負けようがチームにのしかかる。そもそも2500万円は今のB1ならば1ヶ月分の選手年俸にもならない額だ。経費を縮減するために、選手とは契約の巻き直しをする必要があった。
 澤岻たくし直人、波多野和也、清水太志郎の3名がエース級の日本人だったが、ロースターに残せたのは清水のみ。澤岻は契約解除の上で、岩手ビッグブルズと契約。波多野はポスティング(入札)を経て、島根スサノオマジックに移籍した。
 外国籍選手は直後の試合こそ3名が出場したものの、12月1日、2日にビーコンプラザで開催された琉球ゴールデンキングス戦は全員がボイコットし、そのままチームを去った。当時の外国籍4選手は今も良い関係だというが、松岡は「辛い思いをさせてしまったし、当時はしっかりとケアしてあげる余裕もなかった」と悔いる。

 阿部は12月3日に球団事務所で選手たちと面談を行った。中には殺気だった状態で阿部にリーグ側の人件費負担を要求する外国籍選手もいたという。このとき、大学生通訳は授業で不在だった。「通訳が来るまで待ってほしい」と告げる阿部と選手の間で、2時間ほどの睨み合いが続いた。

松岡は振り返る。
「月曜日が通常ならオフですし、学校に行っていたら、マネージャーで今は島根のGMをしているホリケンさん(堀健太郎)から電話がかかってきました。『亮太、すぐ事務所に来られる?』って言われたんです。『選手が事務所に来て阿部さんを詰めている』と。要するに『給料を払うと言うまで、俺はここから出ない』という話です(苦笑)」
 松岡は外国籍選手の「兄貴分」だったマット・ロティックとともに“立てこもり”を続ける選手の説得にあたり、何とか話を収めた。しかしこれは若者がそれから大分で経験する試練の「第1クォーター」に過ぎなかった。

大学4年生でまず通訳に抜擢

 1989年生まれの松岡は中学からバスケを始め、上宮高校時代はキャプテンも任されていた。いわゆる進学校で、バスケ部はスポーツ推薦もなかったが、熱心なコーチのもとで大阪府のベスト16までは勝ち上がるレベルだった。
 月刊『HOOP』を愛読していた少年はNBAニュージャージー・ネッツで働いていた安永淳一氏(現琉球GM)に憧れ、メールのやり取りをしたこともあるという。
 少年は大学進学を前に「スポーツビジネス」「英語」の2大テーマを持っていた。とはいえそのような学部があった早稲田、同志社は入学試験のハードルが高い。松岡は指定校推薦のリストから留学生が多く、英語教育に力を入れていた立命館アジア太平洋大(APU)を発見し、大分に進路を定めた。
 バスケ部に入部した……と言っても九州の5部リーグ。練習は週1回程度で、来られる人が来るというサークルに近い環境だったという。
 2008年、松岡にとっては大学1年の夏にAPUバスケ部とデビルズの縁が生まれる。テーブルオフィシャル(TO)を探していたスタッフの末松勇人(現島根U15・HC)から勧誘を受け、APUはホームゲームに部員を出すようになった。

「最初はTOだけでしたけど、球団の方と仲良くなるじゃないですか。『設営も撤去も手伝います』となって、最後は僕が球団との間に入って、球団お抱えの専属アルバイト集団になっていました」

フロントスタッフが4、5名という体制だった当時のデビルズにとって、大学生集団は貴重な戦力だ。実はここからAPUとプロバスケの縁が生まれ、松岡の影響も受け同校の後輩にあたる小関ライアン雄大(現デンソーアイリスサポートコーチ兼通訳)、岡部大河(現SR渋谷チームディレクター)らがバスケ界に進むことになる。
 松岡の祖父は麻雀用具「マツオカ株式会社」の創業者で、彼自身もそれぞれに事業を持つ両親に育てられた。麻雀の縁で、幼少期から吉本興業の有名な芸人と卓を囲むような経験もしたという。彼は大学生ながらに商才が備わっていた。
 海外留学の夢を維持しつつ、就職活動を始めていた4年生は、あるきっかけから球団の「中の人」となる。チームの通訳を務めていた人物が事情で退任し、ポジションが空いた。松岡は2011-12シーズンから「通訳兼アシスタントマネージャー」となった。
 直前まで選手だった鈴木(現岩手HC)がヘッドコーチを務め、アシスタントコーチは不在。鈴木の副官を務めていたのは「マネージャー兼アシスタントトレーナー」の肩書を持つ、24歳の堀健太郎(現島根GM)だった。今のB1、B2では考えられないコンパクトな陣容だ。
 松岡の報酬も「一応2桁に乗ったくらい」のレベル。しかも帰国子女でも外国出身の親を持つわけでもない彼の通訳力はレベルに達していなかった。英語は「それなりのいい会社の、例えばセガサミーの新入社員くらい」からのスタートだったという。
 ただし若さイコール吸収力でもある。外国籍選手の多くが独身で、松岡は否応なく彼らと日常を共にして、実地で英語を学んでいった。
 「外国人のお世話係でもあるので、一緒にコストコに行くし、役所へ行くし、飲みにも行く感じでした。練習が終わったら独身の選手の家に行って、ずっとテレビゲームをしていました(笑)。そうやって半年くらい過ごしていたら、ある瞬間から喋れるようになっていましたね」

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つづきは本誌でご覧ください↓


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