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日々の出来事は"点"から"線"へ。

学生の頃から、思うことがあります。
私たちは、日常の出来事を"点"から"線"で捉えるようになっているのではないかと。

人は歳をとるごとに、1年が短く感じていきますよね。
これは、ジャネーの法則といい加齢と体感する時間の関係は反比例するそうです。確かに私も年々1年があっという間になっていくし、これがもっと加速するのかと思うとちょっとソワソワするものがあります。

しかし時間だけでなく物事の捉え方も、年とともに変化していると思います。
何を当然のことを言うのだ、と思われるでしょう。
そうです当然のことなのです。人は慣れが出てくると、事象を平凡と感じます。
これは良く言えば適応することであり、もちろんなくてはならない感覚です。
ただそんな経験値を積み上げてくると、感受性が劣えていくように感じどこか寂しくなるのです。

たとえば身近に考えると、ディズニーランドにいくことを小さいときはほんとに
一大イベントと感じていました。
友人や気になる人、家族と行く彼の地は、まさに”ハレ”の象徴でした。

しかし、それも年齢を重ねるにつれてどこか新鮮味を失っていきます。
体力的な理由だったり慣れだったりすると思いますが私はそれ以外にも前後の出来事にも着目したいと思っています。
小さい頃は彼の地にいくことのインパクトが大きく、前後(移動したり、朝飯を食べたりの部分)はさほど気にもしない、それらより遊園地の方に考えが向きます。

それが今ではどうでしょう。
朝ごはんは前日に買ったコンビニのツナマヨおにぎりと梅おにぎり、東京駅から
京葉線蘇我行きに乗って舞浜駅で電車の発車音を聞き、待ち合わせの切符売り場前で待ち合わせてる人と合流します。
遊ぶ記憶以外の記憶も、段々鮮明に残るし、むしろそこの切り分けが出来にくくなっていると感じます。
良し悪しではありません。これは遊園地に行くことを”線”で捉えていることの証拠だと思うのです。

何度も言いますが、人はだんだん歳を取っていきます。
考えや趣向ももちろん変化していきます。新しい感覚やものの見方を備え、古きを捨てていくかもしれません。はたまた回顧することを美徳とし、いつまでも良かったことを守り続けるかもしれません。
しかし皆誰しもが、”点”から”線”へ変わる物事の捉え方を享受し、何事もない変わらないようで変わっていく日々に生きているのです。平凡と驚きが共存している世界なのだと感じます。
これって、なんとなく日々の過ごし方を考えるヒントであり機会であるのではないかと思います。

個人的に思っていたことを長々と吐露させていただきました。
特段、これといったオチがないのですがね。


皆様は、日常の"ハレ"と"ケ"を、どのような視点で切り取っていますか。

文責:Kibe

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