形は違えど、みんな闘っている。オレとお前に何の違いもない。
ふと耳にした曲のメロディが頭から離れなくなることがある。それは歌詞についてもそうだ。
タイトルにした「形は違えど、みんな闘っている。オレとお前に何の違いもない。」という言葉は、相模原市を中心に活動するラッパーBRON-K(ブロンケー)の曲「ROMANTIK CITY」からの引用だ。
今朝、通勤しながらiPhoneからSNSの投稿を見たり、通勤している人たちの表情を見ていたら、ふとこのフレーズを思い出した。そこから色々と考えさせられたので、noteに纏めてみようと思う。
結局、他人の私生活なんてブラックボックス
FacebookやinstagramといったSNSの発達により、これまでブラックボックスだった他人の私生活が簡単に見れるようになった。その内容はリアルなものから、そうではないものまで、様々だ。
「映えさせるための工夫」が存分に散りばめられたSNSの投稿を見ていると、どこか脚色された他人の私生活を見せられているような気持ちになってくる。「これじゃ結局、ブラックボックスであることには変わらないよな。」等と思いつつも、その飾られた華やかさと、夏のうだるような暑さが相まって、朝からぐったりしてしまった。
隣の芝は青く見えるというけれど、「世間の言う充実」なんて、思ったより大したことない。
順風満帆に見えるその生活ぶりや、華やかで充実した人達を見ると、少し劣等感を感じてしまいそうになる。でも本当に彼らは、「自分が羨ましいと感じた程の充実感を得ているのだろうか」とも思う。
僕はこれまでの人生経験から「他者に対し、羨ましいと思ったこと」を実際に自分が体験した際に「(自分が)想像した通りの充実をした経験」がほとんどなかった。それらを経験したところで、気疲れしただけだったり、「もう、こういうのはいいや。」という感想以外に、残ったものが何もない、というのがほとんどだった。
「隣の芝は青く見える」とよく言うけれど、まさにそれなのだと思う。今、乗っている通勤電車の風景を見ていると、月曜から疲れきった顔で寝ている人もいれば、死んだ魚のような目で新聞を読んでいる人、機嫌悪く舌打ちしている人と様々だ。どんなに休日が充実していたとしても、平日にこんな地獄のような絵を描くことになるなら、それはどうなのだろうか?とも思ってしまう。
「世間の言う充実なんて、思ったよりは大したことない。」
と、僕は思う。
形は違えど、みんな闘っている。オレとお前に何の違いもない。
華やかに見える私生活を送っている人にも、地味で味気ない日常生活のワンシーンは必ずある。逆もまた然りで、「映え」とは無縁に見えるような人にも輝かしい充実に包まれているようなワンシーンはきっとある。(本人が気づいているかはさておき)
結局、その人の器の範囲内の出来事しか起こらない。良いこともあれば悪いこともある。日常生活なんてその器の中の上がり下がりの繰り返しで、その真理について言えば、みんな平等なのではないだろうか。
人はつい他者の輝かしい側面ばかりを見てしまうけれど、その光には必ず影がある。
なんか通勤中にそんなことを考えていたら、この歌詞が頭の中に流れてきた。
形は違えど、みんな闘っている。オレとお前に何の違いもない。