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"浮きこぼれ"ギフテッドが思う大事にすべきこと、自分が得られなかったもの

こんばんは、よしたくです。

自分は長らくギフテッドという自覚もなく、ただただ人生のいたるところで転びながらサバイバルしてきました。そして後になって、ギフテッドという特性を理解してからは自分の経験が全部つながるように理解できました。

そうして振り返ると、いろいろと思い当たることがあります。自覚がなかったが故に、自分にとって大事な能力を育てられなかったり、自分に適した行動を取り自分を守れなかったなと後悔していること。それでも、無理やり大事にした部分によって救われてる部分があること。

そんな経験を拾い上げながら、世のギフテッドが自分のように苦労することないよう、早めに大事にしてほしいことをまとめてみようかなと思います。

以下何個か挙げますが、共通するのは周囲からズレる中でも、自分を貫けるための心理的な安全の柱をどっしり建てられるといいねという話です。

人と違っていいんだ、と思えること

難しいですが、やっぱりここなのかなと思います。
まずは自分は周りと違うということを自覚すること。そして自覚した上で、それは決して悪いことではないと思えるようになること。そうして、周りと同じであろうとするための手段を無理に探さなくてよくなること。

これが簡単なようで難しいのは、やっぱり「みんなもそうだよ、私も共感するよ」と言われた方が安心しやすいからです。みなさんも、友達が「私って周りと違うのかな」と悩んでいたら、つい「そんなことないよ」と声をかけてしまうのではないでしょうか。自分が周りと違うことを認めるのは、それらの安心を手放すことです。

自分は自分の特性のことをちゃんと自覚できていなかったから、よくわからないままなんとなく違和感や生きづらさだけを抱えて、周りに馴染めず生きてきました。周りと違うことで弾かれる経験、それによる負の感情を積んでるうちに、なんとか周りと同じようにしなくては、と思うようになりました。そうして、みんながいいと思うような進路を選んでるうちに、どんどん自分の居場所を失ってしまったなと感じています。

そんな中で「人と違っても大丈夫」と思えるようになるために、自分がそのままでいられる場所を確保できるとよかったんだろうな、と今にして思います。"自分と同じように世の中からズレてる人”とネットワークを作れば、自分が世の中と違っても、だからといって自分だけがそうではないことに気づけたかもしれない。

もちろん、親御さんが「人と違ってもいい」と肯定してあげることも大きく影響するでしょう。自分は、幼い頃からなんとなく両親のバランスを取る立場に身を置いてしまっていたので、それも含めて自分の居場所を作ってあげられなかったのかなと反省しています。

自分を表現する力

これは、自分が社会に適応していこうとしているうちに失った、忘れてしまったものです。

まずは、自分が考えてることや意見を表現する力。
自分がやっていたことは、「外に出したら危ないもの」として自分の考えを押し留め、周りの人が考えていることを推測して答え合わせをするように別の考えを作り出すこと。それをやっているうちに、いざ「ではあなたは何を考えているのか?」と問われたときに表現することが難しくなってしまった。

そして、自分の感情や感覚を表現する力。
辛いことは共感してもらえないし、辛いと感じていること自体が攻撃の的になることもあるので、そんな自分の感情を「仕方ない」とか「人間そういうものだよね」とか「相手にも立場がある」とか、理性でなんとか押しつぶそうとしてきました。
つまり、自分の特性で浮きこぼれてしまい、それをOverexcitability(過度激動)と呼ばれる「より深く学ぶためにより強く感じ取る力」で増幅するので、自分の能力であり得る強い理性を自分を殺すために使わざるを得なかったのです。
そうしてるうちに自分のマイナスの感情に耳を傾けることができなくなってしまったし、だから自分の気持ちを素直に表現することもできなくなってしまいました。
今は自分の表現をするリハビリとして、趣味のドラム演奏をしています。取り組むうちに、それまでは音楽という空気の振動が右耳から左耳にすり抜けてしまっていたのが、ちゃんと音楽という芸術として入ってくるようになり始めています。

だからこそ、みなさんあるいはお子さんには、たとえ人に見られていなくても"自分の内側を表現し続ける場所"を持っていてほしいなと願います。文章でも芸術でもプログラムでもなんでも、頭の中にあるものをなんのフィルターも通さないまま形にできればよいです。今は自分の世界を表現できるようなゲームもあれば、自分ひとりで絵や音楽を制作することも以前よりやりやすくなってきたと思います。

意見の否定を怖がらないこと

今、自分が一番苦労しているのはここです。

よく「意見を否定されても、あなたが否定されてるわけではない」という考え方は見ますし、実際そういう切り離しは大事だと思います。でも自分自身の経験を棚下ろすと、職場では意見の違いから能力を否定され、更に誤解から人間性否定されたり、頼った先の医者には人格障害や思考能力欠如といろんなレッテルを貼られてきました。「いや否定されるじゃん」と思いたくなる出来事ばかりです。

そんな経験が拭えず、今でも自分の意見が否定された時につい「この人も自分が今まで出会った人のように、意見が違う自分を誤解し、人間性までを否定し排除しようとしているのではないか」と恐れ、身構えてしまいます。人の事が怖くて怖くて仕方ありません。人に近づけば自分は攻撃され排除される、という思いはどうやっても拭い去れません。

けれど、もし世の中が自分の違いを受け入れてくれるなら、その時は自分も相手を受け入れられなければフェアじゃありません。そういった意味で、今の環境で周りが自分を受け入れていれてくれていることに報いれていないという申し訳無さを感じることが多いです。
ここは経験で塗り替えるしかないので、今は意見を否定された時には都度整理をして、いちいち咀嚼しているような状況です。ひとつひとつ自分に言い聞かせ丁寧に消化していますが、そのたびに疲れ切ってしまうのが現状です。

もちろん必ずしも相手を受け入れる必要はないですし、相手が自分の人間ごと否定していてもその中の意見だけを受け止めたり、気に留めずに過ごせられればいいのですが、それはまだできないなと感じています。実際問題そういう人が自分の存在を排除しにかかってくるわけで、気にしないわけにはいきません。

そういう意味で、これはどうすればよかったんだろう、どうしていけばいいんだろうというのは未だに自分の経験では分かりません。

ただ自分を大事にし、同じように相手を大事にすることは、世の平等/公平の一員に居続けるためにとても大事なことだと感じています。これは自分がマイノリティとしてこれから向き合っていくために大事にしてる姿勢でもありますが、また別の機会に。

自分のあり方に誇りを保つこと

これは、自分がいくらボッコボコになっても「ちゃんと守ってきてよかった」とプラスに受け止めている部分です。

一つは、自分にとって意味や価値があると思ったことはしがみついてでもやりきったこと。何回か転職する中で自分が職務経歴書に書いてきた実績は、職場で評価されたものではなく、職場で評価されなかろうが嫌われようが「これを大事にしてやりました」と自分がやりきったことだけです。
自分の場合は「人の本質に基づいて考える」が基本の軸かなと思っていますし、いろいろあって今自分を支えているものも、今の環境にたどり着きそこで認めてもらえているものも、そうしてしがみついて貫き通した部分です。

もう一つは、人としての誇りを捨てなかったこと。考えを否定するのは耐えても、その排除のための行動がアンモラルな行為であればその行動自体は許容せず立ち向かったし、真っ当でないやり方で排除されてもこっちが同じように真っ当でないやり方でやり返すことはしなかった。

ただそこらへんが頑固であるが故に、逆に言えば燃え尽きるところまで行ったり、精神が死ぬなら肉体が死んだ方がマシ、みたいな考えでギリギリの状態を迎えてしまったということもあります。でも、それぐらい頑固に手放さなかったから、あらゆる機会でギブアップせず人格を放棄せずに生き抜けてきたのかなと強く感じています。

まとめると

自分はギフテッドの一人のサンプルでしかないので個人的な考えに過ぎませんが、好奇心や情熱を支えにすればギフテッドが能力自体を伸ばすのはそこまで困らないと思います。一生懸命教えなくても、材料を与えれば勝手に学ぶと思えば気が楽かもしれません。ただ、自分は一定自由に学ぶ場を外に得られたという立場だったので、それ自体が恵まれていたことかもしれないので、安全だった側からの意見になっているかもしれません。

ですが、なんにせよその能力を持って社会にぶつかるための安全性だけは準備する必要があると思います。それがない限りは、能力はあればあるほど思いっきり世の中に衝突する材料になりかねないからです。

なので、最近良く見る「ギフテッドが活躍できるために能力を伸ばしてあげる環境を作ろう!」という能力だけにフォーカスされた意見や記事は、自分はものすごく怖いなーと思って見ています。「能力を伸ばせば社会で活躍できる」というなら自分はそれは真逆だと思うし、「我々の社会のために能力を発揮してほしい、だから伸ばしてほしい」というならそれは当事者への押しつけです。当事者や保護者が求めまた困っているのは、能力が伸ばせないことよりも、当人が安全に自分らしく生きることができないその現状そのものかもしれません。

ギフテッドのお子さんを持つ方や、教育の立場などギフテッドの将来を守りたいと思う方は、どうか能力だけでなく「能力を出せる心の安全」を育ててあげてくださいね。そうして、より多くのギフテッドが将来安全に自分らしく暮らせることを祈っております。

ではまた。

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