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『逝かない身体』から考えたこと

『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(川内有美子著・医学書院発行)を読んだ。

ALSからTLSになった患者(実のお母様)の実態について
「『閉じ込められた』という表現は適していない。むしろ患者の魂は草木の生命の如く軽やかに放たれて、私たちと共に存在することのみにその本能が集中していると捉えることができる。
既に表情をつくる筋肉も衰え眼球の動きさえ鈍くなっても、患者とコミュニケーションを取りたいと望む周囲の者たちは懸命に話しかけ、微細な表情を呼び起こしてはその意思を読み取ろうとする。」と著者は綴る。
身体のほぼ全ての自由がなくなってしまった患者の、ほぼ全てを介護者と医療技術に託しながら瞬間瞬間が一か八かの博打のような刹那的な生き様。「生きる為に生きる」という凄まじく純粋な姿。故に患者は生きることを放り出せない、そして放り出してはいけないと著者は言い、全力で患者であるお母様の介護にあたる。
読み手としての私は介護者としての著者と患者としてのお母様の姿に圧倒され、心の底から畏敬の念を抱く。
著者の言葉で描かれてはいるものの、言葉やエビデンスというロジカルなツールを取り払った全身全霊の交感の世界だ。

一方で私は激しく躊躇う。「生きることを放り出さない」方法として医療を選び得るのはニンゲン、然もその中でも所謂恵まれた環境に置かれた者たちに限られるということを考えると、果たして(例えその選択が茨の道だったとしても)ニンゲンばかりがその様に生を追求して良いものだろうかと。
ニンゲン以外の動物なら呼吸不全をどうする云々より前に自力で食べ物が摂れなくなったとき、動けなくなったときが間違いなく「詰み」だ。

時に「生」か「死」かを「選び得てしまう」ニンゲンという存在。
その姿はまるで論理的思考という鎧を纏っている様だ。
思えばニンゲンは生からリスクを排除する為に科学的論理的に策を練ってきた生きてきた生き物なのだ(他の生き物は程度の差こそあれ降って湧いた運命を全身全霊で受けとめるしかない)。
その様なニンゲンを嘲笑い、そして更に論理的思考から解放するかの様に働きかけてくるALSという病。

ここで自分の母の最期を思い返す。

母はALSではなく、大動脈解離で倒れ寝たきりで1年を過ごして亡くなった。自立呼吸こそ出来たものの、手術を受ける間脳に血流が廻らなかったことが禍いし、意識は全く無いままだった。
経口チューブでの栄養補給を胃が受け付けなくなり、栄養と水分の補給を点滴でするしかないという段になって、それは母の望みでないのでは、と私が言ったら姉たちはママを見殺しにするなんて何と酷いことを言うのかと泣いて激怒した。
あまりの剣幕に逆に傷付き閉口した私は、「我が子のうち誰か一人でも生きていて欲しいと望むならそれが例え不本意な生であっても母は受容れるだろう」というところに納得を落とし込んで姉たちに従った。
主治医の説明では「脳の損傷具合から見て目覚める確率はとても低いし、見聞きしたものを認識できているとは言えない。目が開いて視線が向いていても、それは介護者の方を認識しているのではありません。」とのことだった。私たちはそれでも母(最早心が肉体に留まっているのか怪しい)に届いて慰めになればと、枕元で音楽をかけたり話しかけたりした。微笑んでいる様に見えるときもあったがそれは「体調が良いというだけのことに過ぎない」のだった。それでも姉たち、殊に長姉は「今日は何だかにこやかだった」「今日は不機嫌そうだった」と一喜一憂し、「伯父様(母の兄)が亡くなった報告をしたらとても悲しそうな表情になった」と悲しんだ。私は長姉の、母と向き合おうとするパワーに圧倒された。

1年という短期間な上在宅介護でもなかったのでその労苦は著者の経験と比較しようもなく軽いものだったのだが、著者と終末期のお母様の姿に長姉と母の姿が重なる。著者はお母様の視線、息遣い、肌の血色、湿り具合でお母様の気持ちを感じ取る。ALSのお母様は意識がはっきりしていることが分かっていてのことだが、それは主体的に関わろうとする者でなければ感じ取ることができないものだ。

姉が受け止めた母のメッセージも姉が主体的に感じたものだが、思い込みと言い切れない何かが存在する。伝わったことが伝えたこと。メッセージはいつでも真摯に耳を傾ける受け手の中からこそ聞こえてくるものなのだ。

意識のない母と姉のコミュニケーションというところに思いを置くと、更に「生」と「死」の間は日ごろ私たちが感じるほど乖離して遠いものではないのではないかとも思えてきた。介護者としての自分と患者としての他者が、言葉やエビデンスという論理的な方法がなくとも互いに交感し得るのだとすれば、生体反応がある=生きているという論理的証拠が成立しなくとも、交感が成り立つのではないだろうか?
「死というものが何か分かったら、人間はもっと死を恐れなくなるだろう」『モモ』の中でミヒャエル・エンデも言っていた。

それ故に敢えて(呼吸器を選ばず)死を選びうる患者さんもおられるのだと思う。

しかしそれはできうる限り問うて問うて自身の中から出た答えであるべきで、周囲の者から促されたものであってはいけない。
自身も周囲の者も全身全霊でぶつかり悩むという苦行の様なプロセスなしに、出してはいけない答えなのだと祈る様に思う。

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